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苦しいのは 知らないからだ
皆が当たり前に過ごし年を重ねる月日を  自分だけが憶えていないという疎外感だ
忘れていない私は きっとすぐさま彼らと笑い会えるだろう
……では 忘れてしまった私は  その時いったいどこにいるのだろう




どこが痛むのかは考えない


ああ、夢だ。
これは夢だ、と分かるものを見ることが多くなった。
前の『藍楸瑛』はどうだったか分からないけれど、私は日に何度もそんな夢を見る。

私の知らない主上の顔、一度会ったかどうかの紅邵可様とそのお嬢さんや家令 (あれは間違いなく第二公子のはずでかなり驚いた)と談笑する風景、顔を真っ赤にする李侍郎のいる室。
どれも私の知らないはずのもののはず。
ならばこれはやはり夢で、『藍楸瑛』の昔なのだろう。

もぞり、とわずかに腕を動かすと、数日前以上から馴染んだ布が手のひらに触れる。

「はぁ……」

目を開けずに溜息を吐く。
瞼を上げると共に見えるだろう天井を、今はまだ直視したくない。

情けないな、

彼らが知っている『私』ほどではないけれど、私も四捨五入すれば、 切り上げで二十歳になる年を取って、それなりに世間を知っていると思っていたのに。

龍蓮……あと、珀明と、いっていたか

目の前が暗くなる寸前に目に付いた派手すぎる服の裾と、その近くにあるまだ少年の足と。
私と同じくらいの二人、夢に見る彼らはとても親しい間柄だった。
あの龍蓮に友達ができるなんて、正直思っていなかったけれど。
心の友と呼ばれる三人と一緒の龍蓮は、本当に嬉しそうで楽しそうで、 ……遠目に見ているだけの「私」まで釣られて微笑むくらいに弟の変化が伝わってきていた。

彼らが君を変えたのかな?
ねえ龍蓮、兄弟喧嘩なんて一度もしたことなかったね

昼間の執務室で、李侍郎の表情を見れば彼の抱く懸念くらい察することできた。
それでも、あえて何も言わなかったのは、その心配が杞憂であることを誰よりも分かっていたからだ。

兄弟とはいっても、始終顔を合わせていたわけじゃない。
むしろ龍蓮が旅に出てから、腰を落ち着けて話した事なんてほとんどない。

兄弟喧嘩なんて、したことなかったのにね

李侍郎は、彼が恐れていたことは起こるはずがない。
それでも彼がそう思ったことには根拠があるのだろう、
そしてそれは、間違いなく今の私を否定する。

はぁー…

今度は心の中だけに溜息を響かせる。
情けないと思う、たった数日でこの様だ。
憶えていなくても、肉体が変化し続けていても、私は私だと言い張れた時が遥か遠くにある。

ピチョン、と閉じているはずの扉の向こうで水の音がする。
あの後、また雨が降ったのだろうか。

「楸兄上」

突然枕元で声がしても、驚かなかった。
龍蓮の気配は、過去の夢から意識が浮上した時から室の中にあった。
ただそれを、なんとなく認めたくなっただけで。

「龍蓮」

そう言って目を開ける。
ぼんやりと見えるのは、慣れた黒い天井と、窓から差し込む灰色の光だ。
そのいつもの景色に、一人龍蓮の存在だけが浮いている。
相変わらず何を考えているか分からない(別名、分かりたくもない、とも言う)弟の顔は、 午後より若干幼く見える。

「ようやく目が覚めたか、愚兄」

「……ああ、そうだね。ずいぶん寝入っていたみたいだ」

気づいているだろう、という言葉を喉でくい止める。
知っているというなら龍蓮は全てを知っているだろう、 私が記憶を失ったことも肉体が退行していることも、その原因も。
私が、本当は半刻近く前から悶々と考え続けていたことも、もちろん知り得ているはずだ。
なぜなら彼は、弟は藍龍蓮なのだから。


空を覆い尽くす分厚い紫雲は、月の光を吸収し一片も漏らさない。

手触りの良い布を握りしめる。
そして腕に力を入れ、上体を起こした。
ぎしり、と僅かに軋んだ寝台に龍蓮は腰掛けていた。
深く沈んでみえる藍色の瞳は両方とも私を向いていて、芯の奥底まで見透かしそうな視線に背中が寒くなる。
それに気づいたのか、ふいと視線を外された。
唇を尖らせて窓をじっと見る龍蓮は、子どものような表情をしていて。
まるで拗ねているような――

「……」

思わず眉間に皺が寄ってしまう。
龍蓮が拗ねる?
あの龍蓮が?
自問自答して、さらに顔が歪んだような気がした。

あり得ない、とまでは言えないかもしれないが信じられない。

「なんだ、愚兄」

「いや別に」

じろじろと見られる事が不快だったのか、単に気になっただけか、
再びこちらに視線を戻した龍蓮の問いに、速攻であらかじめ用意して置いた言い訳をする。
言い訳、になっていたかは別として。
今度は私が目を逸らす番だった。

李侍郎が言っていた。
龍蓮に心の友と呼ぶ三人の、『お友達』ができたのだ、と。
あれはいつだったか、私が執務室で主上補佐の仕事指導を受けていた時だったか。

気を利かせたはずの彼の言葉は、私の重荷にしかならなかったけれど……
今思えば、やはりその言葉は私のためで、私は彼に助けられていたのだろう。

雄弁な、笛を吹くより手をつなぐことを優先する弟など私は知らない。
一八年間関わろうとしなかったツケが回ってきたのかもしれない。


「……気味が悪いぞ、愚兄。気でも触れたか」

恐ろしく心外なことを言われたが、言い返せない。
顔中の筋肉が弛緩するのを止められず、不気味にヒクヒクと引きつる私の頬を見た龍蓮も、 ついでとばかりに眉間に皺を寄せる。
酷く奇妙な光景だ、ここに私達以外誰もいなくて心底良かった。
兄弟そろって変人だ、なんて思われたらまさしく私の人生が終わる。

「いや、……うん、なんでもないよ」

止めきれなかった笑いが小さく漏れたが、それ以外は意地で押し込めた。

龍蓮に手を伸ばす。
本人はそれを胡散臭そうに見ていたが、私の手が高く結い上げられている髪に届いた時、ぴくりと震えた。
その反応を気にせず、龍蓮の髪の毛を梳き、頭を撫でる。

寝台に浅く腰掛けるだけの龍蓮の顔は、私の頭より高い位置にあったけれど、今宵はそれで良かったと思う。
今の自分の表情に見当が付く分、余計に見られたくない。

その時、ふっ、と柔らかい鼻息の音がした。

「龍蓮?」

笑った、というより笑われた?
雲の薄い合間から地上へ届く月光りが、さきほど強くなる。
見上げる形になる龍蓮の口元は、ゆるい弧を描いていた。

「小さいな楸兄上」

そう聞こえた瞬間、どれほど龍蓮の頭に手刀をたたき込んでやろうと思ったか。
理性で堪えた私を誰か本気で褒め称えてほしい。

「龍……」

睨み上げても、どこ吹く風。
泰然と寝台に居座る龍蓮に溜息が漏れた。


龍蓮の世界を開いてくれた友人達に感謝と、
前より確実に縮まったはずの龍蓮との距離にほんの少し寂しさを感じる。
後悔がなかったといえば嘘になるけれど……、
今はこの常識からずれまくった弟が、人並みの幸せを噛みしめていることが嬉しいと思う。

私の記憶と違わず、台風の目のような龍蓮を見上げる。
今の私より僅かに骨格がはりだし成人に近い弟、というのも変な話だ。

龍蓮と目が合う。
昼間感じたような、息苦しさはない。
思い出そうと力んでいた最近の疲れが、解けて萎んでゆく気がした。


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date:2008/07/13 【08/08/07.改訂】   by 蔡岐

群青三メートル手前 , "どこが痛むのかは考えない" …『淆々五題(伍)』より】