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「何をしているんだい、龍蓮」

楸瑛が声を発する。
その言葉に含まれる棘が、龍蓮以外のこの室にいる全ての人間に平等に降り注ぐのを劉輝は感じた。




鼓膜を叩る残響


ピロリロピュロラ〜と、ある意味どうしたらそんな音が出るのか教えてほしい、 と消極的自殺願望者なら思うかもしれない音が執務室に響き渡る。
劉麒は泣きたくなった。
この場に、龍蓮以外の人間、珀明がいてくれて本当によかったと思う。
けれど、心の友其の四の言葉も今の龍蓮には効いていないようだ。
出来うる防御対策と言えば、必死で指を耳に突っ込むぐらいが、関の山だ。

(うっ、く、苦しいぞ。何故、楽の音でこれほどまでの音が……!)

この怪音を聞くこと四刻半弱、そろそろ精神的にも肉体的にも限界だ。

(ああすまぬ絳攸楸瑛、余は結局良い王様にも秀麗のお婿さんにも慣れなかったのだ
すまぬ……
せめて、最期にそなたらへの詩を吟じよう。名付けて、仲直りのうた)

考え方が若干龍蓮化しているのは、免疫もないのに比較的長時間笛の音を効き過ぎたからだろう。

(うむ辞世をの句を残すのだ、きっと二人も喜んでくれよう…)

「あー、うむ。では――」

「主上、大丈夫ですか?」

「へあ?」

まさに辞世の句を読み出そうとした瞬間、扉が開いた。
現れた二人に劉輝の口から間抜けな声が出る。
すると、それまで間断なく続いていた笛の音がぴたりと止まる、劉輝は窓辺に視線を向けた。

「藍将軍」

「久しいな、愚兄」

怪音の現況の兄の存在に、珀明が表情が緩む。
その横で、窓際に立ち笛を両手で抱え持った龍蓮は、静かな目を楸瑛に向けていた。



「龍蓮」

楸瑛の口から呆然とした呟きが漏れる。
まあ無理もない、龍蓮が貴陽に来ているなんて、考えてなかったんだろう。
何しろ、ここ最近の忙しさと言ったら近年稀に見るほどだ。
いくら要領のいい楸瑛でも、疲れないはずはない。
しかも、本人は朝廷へ出仕してからの記憶をごっぞり失っている。

(俺だったらどうなっていたことか……)

きっと右も左も分からず、無様に黎深様に縋りつくしかない。
そんな自分が情けなくはあるが、今は楸瑛の方が心配だった。

周りの心中などお構いなしに、龍蓮は横笛を弄っている。
その様子に口を開こうとした時、

「龍蓮」

呆れたような口調の中に、隠しきれない苛立ちが見えて、絳攸はぞっとした。
以前、記憶を失う前に内包されていた親しみが、ない、気がした。

「ふむ、いかにも。愚兄は、私の名を連呼せねばならぬほど、耄碌したか」

普段と変わらない龍連の言葉は、けれど口元に確実に険を孕んでいた。

これは、やばいんじゃないだろうか。

(いわゆる修羅場ってやつか?)

使い方を恐ろしく間違っている気がしないでもないが、 そんな悠長なことを言ってられる状況とは思えない。
間違いなくまずい。
こんな規格外の兄弟が引き起こす兄弟喧嘩など見たくもない。
止めに入ろうと、一歩踏み出す。
だが、俺より一足早く楸瑛が口を開いてしまった。

「いや、心配ないよ。それより主上の執務室で何をしているんだい、龍蓮。
貴陽に来ていたのなら、藍邸においで」

「却下」

「お前の笛で、これ以上被害を出すわけにはいかない」

すげなく断った龍蓮の言葉を無視して、楸瑛は言い切った。
そのやりとりを聞き、背中に冷や汗が流れた。
主上の方を見ると、同じくこちらを向きぎこちない笑みを見せる顔があって、何も言えなかった。

ふと、主上の向こうにいる珀明が視界に入る。
兄弟の応酬に驚いたと思っていたその顔には、明らかな苦みが浮かんでいた。

「藍将軍!あの、龍蓮が笛を吹いたのは今日が初めてでして……」

必死で言い募る珀明に、楸瑛が目を向ける。
その瞳には「誰だ?」と浮かんでいる。

「君は……」

慌てて、今度こそ間に入った。
その時ようやく、室に入ってから一歩も動いていないことに気づいた。

「珀明、主上に吏部の件で何か用があったのか」

「え、いえ。書類をお渡しするために」

「そうか」

それなら龍蓮を連れだしてもらうことができる。
珀明には悪いが、今の状態でこれ以上楸瑛と龍蓮が顔を合わせていると、 俺達では収拾ができなくなる可能性大だ。
ちらりと主上に目配せする。
楸瑛はともかくとして、主上にも口裏を合わせてもらわなければならない。
俺の視線の意味に気づいたのか、劉輝が浅く頷く。

(ああ、なんだか懐かしいな)

ほんの数日前までは当たり前だった。
人の機微に聡い楸瑛と、意外としゃんとしている主上がいた執務室は、 各々が相手の気分を推し量って仕事をしていた。
そのころに、戻りたい。
今の楸瑛を否定したくない、けれど望みは次から次へと湧いてくる。

そこで、さきほどから黙っている楸瑛が気になった。
龍蓮も同じだが、それはこの際放っておく。

「楸瑛?」

さきほど俺がいた場所の横に、まだ楸瑛は立っていた。
傍目からは分かりづらいが、まだ微妙に衣服は濡れている。

「李、侍郎……」

やけに力無く楸瑛が俺を呼ぶ。
下を向いているため顔が見えない。

(変だ、)

ようやくその事に気づいた。
さっきまでの勢いが形を潜め、代わりに前日の儚さというか、脆さすら感じる。

「あの、藍将軍?どうか、なさいましたか?」

珀明も違和感に気づいたらしい。
楸瑛が俺を呼んだ時に、おかしな顔していたから、その事もあるのだろうが。
まずいな、そう思う。
このままじゃボロが出る。
せっかく三師と将軍、それと一部の高官にしかこいつの異変がばれていないというのに。

「は、珀明っ、すまないが…」

「楸瑛!!」

俺の言葉に被せて、主上の叫びが鼓膜を通る。
その声に振り返ると、同じ場所に楸瑛は居た、膝をついて。

「楸瑛っ?」

「李じろ…ぅ」

スローモーションで堅い床に崩れる体は、明らかに前より一回り小さかった。
首筋に嫌な風が触れた、ぞわりと悪寒が押し寄せる。
磨き抜かれた執務室の床に、楸瑛は酷く不釣り合いだ。

「しゅ、しゅうえいっ!!?」

主上のせっぱ詰まった声が遠い、何もかも遠い。
頭が異常に冷えてゆく。
何も考えられない、考えたくない。

「楸兄上」

そんな中で龍蓮の声だけがやけに近く響いた。
思わずそちらを向くと、俺達が室に入る前と寸分違わぬ、 落ち着き払った龍蓮が、相変わらず楸瑛だけを見つめていた。


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date:2008/07/06   by 蔡岐

Lanterna , "鼓膜を叩(は)る残響"】