ギィと府庫の門の開く音に邵可は振り向いた。 立っていたのは毎日のように顔を合わせる青年、 自らがかつて王位を次ぐようにと懇願した彼の姿だった。 「主上……」 「邵可、朝早くすまぬが府庫を借りるぞ」 それが何を意味するのかすぐにわかった。 そして、その覚悟を自分は止める術を持たない。 「はい」 どうか主上、ご自愛を。 邵可はただそう呟き、ゆっくりと目を伏せた。 それはまるで舞い散る純情のように。 「お前は、……っいったい何を考えているんだ!」 午後から降り出した雨で、あたりは夕刻前だというのに薄暗かった。 外朝の奥まった部分にある小さな室で、絳攸は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。 こんなに思いきり叫んだのは楸瑛が記憶を失って以来だ。 その楸瑛は目の前にいて曖昧に微笑んでいる、腹が立つことこの上ない。 「聞いているのか貴っ……楸瑛!」 貴様、と言うのは、事情を知らない相手に対してあまりにも失礼だと踏みとどまる。 これだけ怒鳴ってもこいつが飄々としてたんじゃ何の意味もない。 くそっ、なんで怒られているのかわかりません、みたいな顔しやがって。 「ええと、聞いています李侍郎」 「聞いてなかったら本当に拳骨でも入れてやりたい気分だ!」 言った瞬間後悔した。 馬鹿か俺は!記憶のないやつに向かってなんて事を。 ああ、楸瑛も目を丸くしてる、最悪だこれじゃあいい大人が八つ当たりかと鼻で笑われ… 「……拳骨したことあるんですか?」 全く別のところで驚いていたらしい。 がっくりと肩を落とす、本当に馬鹿みたいだ。 「どうしたんですか?」 訝しげに俺を覗き込む楸瑛の顔にどきりとする。 慌ててぴしっと立ち、なんでもないと首を振った。 重厚な扉の向こうからは、激しく降り続く雨の臭いが漂ってくる。 「李侍郎」 やめろ、そんな心配そうな顔するな。 困ったような声で呼ぶな、あいつと同じ表情でこっちを見ないでくれ。 馬鹿だと思う、手前勝手だとも。 目の前にいる青年は間違いなく『藍楸瑛』なのに……それでも俺が望む男では、ない。 そんなこと、絶対に彼には言えない。 ただでさえ訳の分からないこと尽くしな状況を今日まで耐えているこいつに、 俺のわがままのせいでさらに余計な心労を与えたくなかった。 ……なんとなく、気づかれているかもしれないが。 楸瑛は聡い、あの常春と同じように。 だから俺は全てを無視して、お前の気遣いも何もかも無視して、我を通すしかない。 「何故この雨の中、屋外にいたんだ?」 尋ねると楸瑛は少しびっくりしたような表情を見せ、その後薄く笑った。 俺は、こいつのその笑いが大嫌いだ。 常春頭の時も好きじゃなかったが、さらに嫌いになった。 「何故笑う?」 出た声はかなり不機嫌だった。 「いえ、すいません。その事ですか。」 何のことで俺が怒っていると思っていたんだ! 問いただしてやりたかったが、それでは話が進まない。 絶対吐かせると決意して楸瑛を見ると、楸瑛が困ったように眉を下げた。 その表情に自然と眉が寄る感じがする。 「睨まないでください……別に、大した意味はありません」 「え?」 声を出してそれがさきほどの問の答えだと分かった。 楸瑛は俺から目を離し、窓の外を見る。 雨粒が遮る向こう側に、半刻前楸瑛が突っ立っていた場所が見えた。 「何か、あったわけではありません」 「楸瑛…」 言いたいことが分からなかった。 もしかしたら、楸瑛自身にもよく分かっていないのかもしれない。 心底困ったという風に楸瑛が溜息を吐く。 はき出された息と共に、俺の気分も落ち込んでゆく。 「……何もなかったので」 だから苦しいのかもしれません。 そう言って楸瑛は笑った。 胸が締め付けられる。 にがい。 苦しい。 気が付けば体が動いていた。 「え」 ぎゅうっと、音が聞こえそうなほど肩を引き寄せる。 今の楸瑛の頭は、俺のひたいまでしかない。 楸瑛の肩口に顔を埋めた。 ふわり、とあいつが愛用していた香が匂って、ああやっぱりこいつはそうなんだと感じる。 否定しても、必死で打ち消してみても、目の前の彼はあの楸瑛なんだと。 その事が悲しくて、嬉しかった。 「李、侍郎?」 困惑した声に我に返るが、今更やめられない。 「すっ少しだけ……こうさせてくれ」 きっと耳は真っ赤になっているだろう、恥ずかしい。 なんてらしくないことをしているんだ俺は。 けれど触れ合っているところは酷く温かく、楸瑛の存在を教えてくれる。 楸瑛が雨に降られているところを見て、冗談抜きで心臓が止まるかと思った。 俺はその時かなり疲れていたと思う。 昨日の件でまた眠れなくて、仕事が捗らなくてイライラして、 そしていつもなら俺の無茶を止める男がいないことに、また落ち込む。 馬鹿みたいに、そんなことを繰り返して。 雨で気温が下がっていたことが、さらに疲労に拍車をかけていた。 最悪な気分の中廊下歩いていた時、 目に入った光景に、一瞬本当に目の前が真っ暗になった気がした。 慌てて叫びながら雨の中庭に駆け出ると、ゆっくりと楸瑛はこちらを向いた。 髪の解れから滴る雨に息をのんで、青すぎる顔色に足が震えた。 「しゅう、えい?」 ふるえる声で呼んだ名前に、楸瑛はぴくりと眉を動かし、それきり黙ってしまった。 口を開かない楸瑛に焦れて、むりやり屋内に引きずりこんで髪を拭った。 自分でも乱暴だったと思う、けれど、他にどうすればいいか見当も付かなかった。 憔悴しているこいつになんて言葉をかけたらいいのかも。 その時聞こえた、楸瑛の小さな呟くような声が。 「ありがとう」 そう確かに言っていた。 その言葉で、俺は平静さを取り戻せたような気がする。 こいつは、『いつもの楸瑛』と同じように俺を励ましてくれた、本人は自覚してないが。 楸瑛の声に泣き出しそうなほど安心した。 そして、今も。 楸瑛の香と温かさに、子供のように頼る俺がいる。 たとえ記憶が無くても、藍楸瑛は俺と一緒にいるのだと。 「李侍郎」 「ん?」 楸瑛がもぞもぞと動く。 ああ、さすがにいい年した大人が年下に(本当は楸瑛の方が年上だが) 抱きついているっていうのはおかしいよな。 「悪かったな、今離――」 「いいえ」 ……なんだ、この状況は。 呆然と楸瑛を見下ろす。 にっこりと笑いかけられて、反射的に笑い返した。 頬が引きつる、下手に手も足も動かせない。 さっきまで抱きついている俺だったのに、いつの間にか抱きしめられていた。 しかも前より密着度が高い。 「こうした方が温かいでしょう?」 「………」 笑顔で言い切られた。 背中に変な汗が伝う、恥ずかしげも無く言い切るところは変わらない。 「あなたは、温かいですね」 吐息のついでのように呟かれた言葉にはっとする。 引いていた熱が戻ってくる。 忙しなく手を握ったり広げたりしてみるが無駄だった。 ゆっくり、こわごわと楸瑛の背中に手を伸ばす。 常春馬鹿より細い、けれどしっかりとした肩に少しだけ体重を預ける。 そのまま目を閉じ――ようとした時、 どこからか聞こえてきた奇っ怪な音に、思いきり頭を楸瑛の肩にぶつけてしまった。 「は?」 なぜだか果てしなく嫌な予感がする。 それは楸瑛も同じだったようで、体をはなし顔を見合わせる。 そして、ぼんやりしていると気力全てが吸い取られそうな音色(のようなもの)に、 思い浮かんだ単語も同じものだった。 「「龍蓮っ!?」」 本当に、嫌な予感というものは誰しもよく当たる。 叫んだ直後、俺は思わずがっくりと頭が下がり、楸瑛からは溜息が漏れた。 date:2008/06/22 【08/08/07.改訂】 by 蔡岐 【狸華 , "それはまるで舞い散る純情のように。"】 |