*







僕らは世界を否定して 世界は僕らを否定した


「うぅ〜〜っ、絳攸遅いのだっ!」

自分以外誰もいない執務室に虚しく響いた声に余計にやる気を削がれた、気がする。
がっくりと机に突っ伏した。

「はぁ、心労でどうにかなってしまいそうだぞ。」

もちろんこれは大袈裟だが。
絳攸の場合を考えると、あながち冗談ではすまなくなるかも知れない。
それほどまでに有能な側近の態度はおかしかった。

(原因は、――――――― 一つしか、ないのだったな。)

もう一人の側近、藍楸瑛が記憶を失ってから今日で8日目。
いくら残業徹夜が常態化している吏部侍郎でも、無理がたたって仕方のない日数で。
彼の執務室で、府庫で、迷っているうちにでも倒れやしないかと、 ただ待っているだけの時間ははらはらし通しなのだ。

(む、迎えに行きたいっ)

仕事しろと怒られてもはたかれても、こうやって此処で気を揉んでいるよりずっといい。
という事で行こう、どちみちこのままでは心配で仕事など手に着かない。

(思い立ったが吉日、というのだ!)

立ち上がって歩き出そうとして ―――― 。



前方から恐ろしいスピードで書簡が飛んできた。

「うおっ、」

「主上ぉ〜、何処へ行く気だっ!」

間一髪でかわせたと思ったら聞こえた地を這うような声に、条件反射で姿勢を正し慌てて椅子に逆戻りする。
扉を押しのけるようにして入ってきた怖すぎる側近にどうにか今の状況を説明しなければならない、 でないとまたとんでも無い量の仕事を押しつけられる羽目になる。

「こ、絳攸っ。違うのだ、決してサボろうとしていたわけではなくてだな、ええっと……」

(い、言えない)

目の前の彼に、貴方の方向音痴が心配でした、なんて。絶対に禁句だ。

「主上?」

「え、」

「どうなさったんですか」

絳攸の後ろから姿を現したのは、なんと楸瑛だった。

(どういう事だっ、いつの間に迎えに行くほど仲良くなったのだっ!)

ぐるぐるとああいでもないこうでもないと、考えを巡らせる。
だって、此処2、3日はともかく、最初の頃などまともに会話すら成立しなかった。
絳攸の頑なな雰囲気を察してか、楸瑛も自分からはほとんど話しかけたりもせず、 なんとか自分がその場を取り持っていたのだ。
本当は、絳攸もちゃんと話がしたかった事は知っていた、けれど諸々の事情や 彼の高い矜持のせいで躊躇っていたことも。
だから、これは嬉しいことだ。
少なくとも無駄な気を回す必要が無くなった、という点では。

けれど、……


(全っ然、仲良くなってない、)

ちらりと、二人を見遣る。
話してはいる、会話もちぐはぐでなくちゃんと関連性があるしスムーズだ。
なのに、なんなのだろう、この異常な重苦しさは。
前の方がまだマシだったような、気が、しないでもないほど。

「あの、」

「はい、なんですか?」

「いや、その……なんの話を、しているのだ」

「は?」

驚いている楸瑛の横で、絳攸が苦い顔をした。
余計な事を、と顔に書いてある。

「今週、主上が処理した工部の予算に関する物と、戸部から来た――」

「ようするに、あなたがサボった書類の確認です!」

「うっ、」

サボった訳では、という反論は後々が恐ろしいので飲み込んだ。

(執務の話、なのか。やはり、)

まぁ国試受験前に記憶が飛んでいるのだから、打ち解けた話など出来るはずもないのだが。
結局そう言う結論に達して、二人に気づかれないように肩を落とした。



こうして、他人行儀に自分達に接する楸瑛と仕事をしてきて、気づいたことがあった。
彼は、本当に何処までも『藍家』の人間なのだ。
藍楸瑛からそれを切り離して考えることは不可能で、それが酷く強い違和感を呼び起こした。

(けれど、余は。今までそれに気づかなかった)

楸瑛の言うところの15歳、に戻ってしまった彼を見て、それで初めて気づいた。
おそらく楸瑛は隠していたつもりはないのだろう、 むしろ藍家大事なんて直系の彼にして見れば当たり前で、「王なんて二の次」と考えることの方が自然だ。

(楸瑛も、気づいていなかったのかも、)

気づかぬうちに、前の彼は、徐々に『藍家の人間』では無くなっていっていたのだろうか。
それとも、誰かが ……。

「主上、何ボケッとしてるんですか。まだ、こんなに仕事が残ってるんですよ!」

絳攸の不機嫌丸出しの声で、はっと我に返った。
慌てて書類に目を落とそうとして、ふと過ぎった嫌な予感にもう一度前を見た。

「主上っ!」

絳攸の業を煮やしてドシドシと此方へ来る。

「どうされたんですか、主上」

まだ扉近くにいた楸瑛も、余の変な様子に眉を寄せ近づいてきた。

「楸、えいっ……っ!」

杞憂で終わって欲しかった。
絳攸は気づかなかったのだろうか。 否、仕方がない。彼は話している間もあまり楸瑛の方を見なかったから。
おかしい、毒を盛らされたわけでも、強力な兇手に命を狙われているわけでもないのに。

(手が、震えている?)

静かに静かに、身体の先から熱が奪われていく。
それとは対照的に顔や首が異常に熱い。

「一体どうしたんですか、……主上?」

さすがにおかしいと思ったのか、絳攸に手を伸ばして腕を掴もうとする。

「 ――くなってる。」

我ながら情けないことに声まで震えていた。

「え?主上?」

問い掛けに、必死で気力を絞り出した。

「楸瑛の、… … … 身体が、また縮んでいる」

絳攸の手が止まった。その向こうで、楸瑛も。

(時間が止まってしまった、みたいだ)

埒もないことを考える。
絳攸は口を開いて、そして閉じた。

「そう、ですか。」

やけに落ち着いた声音に楸瑛を見ると。
ただ、悲しそうに笑っていた。


‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

  

date:2008/04/27 【08/08/07.改訂】   by 蔡岐

【宿花(閉鎖されました) , "僕らは世界を否定して 世界は僕らを否定した" 】