白い光に照らされた最後の日の翌日
事件から、3日。
楸瑛の順応は早かった。
まぁ、国試を傍眼及第して執務に関しては怜悧なやつだったから、
さほど心配はしていなかったのだが。
全て以前の楸瑛なら卒なくこなせていた物ばかりだったから、というのが大きいのかも知れない。
王の側近が記憶喪失なんて事が知れれば、朝廷に大きな波紋を喚ぶだろうと言うことで、
この事を知っているのは俺と主上と各尚書、三師、それとやつの直属の上司である黒大将軍だけ。
邵可様は例外として、やつの部下の武官も数名事情を知っているが、懸命にも誰一人口外する者はいなかった。
黒大将軍曰く、『剣の腕は鈍っていない』だが、
当分の間将軍としての仕事は此方で引き受けると言って下さった。
主上同様、楸瑛の身体異常に気づいて、むしろそっちの方を気にかけている風だった。
そして、俺は、――――
「ぅゆう様、絳攸様っ」
「あ、・ ・ ・ どうした珀明」
「いえ、どうかなさったのですか?先ほどから筆が止まっていたので」
「否、何でもない」
しまった、考え事をしていたら。
あの日以来、何かと心配事が多くてうまく仕事をこなせていない。
「そうですか、最近お元気がないようなので、何処かお悪いのかと思ったんですが、」
しかも、珀明にまで心配をかけてしまっているし。
「すまないな、本当になんでもないんだ」
そう言うと少し悲しそうに「そうですか、」と言って机に戻っていった。
その様子に違和感が覚えたが、目の前には席を立つことを許さない、
とでも言うように大量の書類が積み重なっていて。
(仕方ない、か)
今日も執務室に行くのは夕方になりそうだと、溜息を吐いて仕事を再開した。
「うぅ〜〜、終わらぬぅ〜」
日課となった愚痴をこぼすこの国の主に、楸瑛は微笑した。
自分の記憶がなくなったらしい翌日から、
この室に入り浸って色々と教えてもらって仕事を手伝ったりしているのだが、
どうにも少しこの若者は言動が幼くないだろうか。
(見た目、完全に立派な大人、なのに)
最初は少し驚いた。
国家元首なら、もう少ししっかりしていて傲慢なものだろう。
それなのに毎日のように吏部侍郎に怒られ怒鳴られ叩かれて、
挙げ句の果てには、自分に助けを求めて子犬のように目を潤ませるのだ。
あの無垢な瞳を見た時はさすがにかなりグラッときたが、どうにか押し込めて新しい書類を机に置いた。
その瞬間、『うぅ!楸瑛まで余を見捨てるのだなっ!絳攸に苛められ夜遅くまで仕事して、
時には徹夜までして頑張っている余をっ。秀麗とも静蘭とも会っていないのだーーーっ!!』
と喚いて裾に縋り付かれた時には、本当に気の毒で自分が恐ろしく冷酷な仕打ちをしたように錯覚したのだが。
その横で舌打ちして、書類整理をしている銀髪の彼を見ると、その思いも雲散していった。
(触らぬ吏部侍郎に何とやら、だね)
そう思うほど、彼の機嫌は悪そうだった。
主上はそんな側近の全く別の所を心配していたけれど、少なくとも私には怒っているようにしか見えなかった。
(十中八九、私のせいだろうけど、)
彼が初対面で見せた、苦虫を噛み潰した、苦り切った顔が頭に浮かぶ。
それを思い出すと必ず走る、鈍痛にももう慣れた。
(何故、私は此処にいるのだろう)
目の前の若者が、李絳攸が、上司だという黒大将軍が、他の顔も名前も知らない誰かが、
『藍楸瑛』という男の名を呼ぶたびに、浮かんでは消え、そしてまた浮かんでくる馬鹿げた問い。
そんな事、誰にも分かるわけがないというのに。
声をかけられて、親しく話される度に徐々に酷くなってゆく軋み。
それをどうにか押し隠して、今日も自分と彼の机に急ぎの書類を置く。
「はいはい、愚痴ばかり言って全く進んでなかったら、それこそ今日も明日もここから出られませんよ」
むしろ李侍郎が全力で阻止するだろう。
彼の他の顔は余り知らないが、仕事に関して言うなら鬼だ。間違いなく。
「う〜、絳攸は今日も遅いのだぁ」
「…………まぁ、それは確かに」
朝廷一の才人と歌われているらしい彼が、
ある意味天才的な方向感覚の持ち主だと知るにはさして時間はかからなかった。
今までどうやって何事もなく目的地にたどり着いていたのか、不思議でならない。
私が迎えに行っても良いのだが、何故だか主上にも李侍郎にも、そして紅邵可様にもいい顔をされなかった。
聞くと、よく話題に上る紅秀麗殿の父親で、静蘭という武官はその家の家人らしい。
「ん?どうした楸瑛」
「えっ、あ、いえ何でも。いつまで経っても終わらないなと」
「はぁ、そうなのだ。……よし!休憩にしよう」
えっ?、いやいやこの膨大な書類を前にして、何とち狂った事を。
「酷いぞっ!楸瑛」
どうやら、思わず口から出ていたらしい。
涙目になって訴える青年は、相変わらず為政者としての気迫は皆無だった。
(だが、それで良いのかも知れない)
「分かりました、少しだけですよ?」
「うむ!分かっているのだ。」
ごく自然に臣下の事を慮れることに比べたら、そんなものは些事に過ぎない。
(だから『藍楸瑛』は、この方から花を受け取ったのだろうか)
王に絶対の忠誠を誓う下賜の花。
それを私が受け取っていたと分かったのは、主が記憶喪失だと知った藍邸の家人が最初の頃、
私を取り巻く環境をあらまし説明してくれたからだった。
朝廷で、特に主上と李侍郎からそんな事は全く言われなかった。
というより、彼らは私に王の仕事の補佐以外の何の役割も教えてはいない。
それが、酷く嬉しかった。
これ以上、二人からも何か言われていたら本当に壊れてしまいそうだったから。
「では、お茶を入れますね」
ここ数日で、すっかり顔に張り付いてしまった笑顔を浮かべて、彼に背中を向ける私の、なんと醜いことか。
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date:2006/10/09 by 蔡岐
【宿花(閉鎖されました) , "白い光に照らされた最後の日の翌日"】
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