砂上の楼閣
あの後は、どうにか主上の機転で切り抜けた。
正直あの場に彼がいてくれなかったらどう接して良いのか分からなかった。
「とっ、とにかく、まずは自己紹介なのだっ!」
「えっ?あぁ、はい」
「うむ!まずは余からだな。紫劉輝だ、彩雲国国王をやっているのだ」
「やってる、ってあんた。……李、絳攸だ、吏部侍郎を拝命している」
「絳攸、もっと元気よく言うのだ」
「 ……俺は、いつも通りだっ」
「藍楸瑛です。初めまして、主上、李侍郎」
李侍郎、やつの口からその単語を聞いたのは何時ぶりか。
さすがに呆然とすることはなかったが、あいつの言葉一つ一つが棘のように身を引き裂いていった。
呼びに来た武官の話によると、楸瑛の様子が変わったのは朝の訓練を終えた後らしい。
大将軍達と軽く話した後、自分の執務室に引き上げていったのだという。
そして次にやつの部下が呼びに行った時には、すでに記憶を失った後だったわけで。
当初その事を聞いた時は、何を馬鹿な、と思ったのに。
人がそう簡単に記憶を失うはずがない。
頭を打ったとか、高熱などの後遺症というならまだしも、何の外傷もないのにただ記憶だけが消えている、なんて。
しかも、よりにもよってあの男が。
悪い冗談だ、と安易に考えていた。あいつが俺のことを忘れてしまうなんて、信じられなかった。
そしてもう一つ信じられなかったのは、――――――
「楸瑛、早速だが少し服を脱いでくれぬか?」
「主上?」
「うっ、なんだ絳攸、その目は。別に変な意味ではないのだ!
ただちょっと気になることがあってだな、」
「構いませんよ」
苦笑して衿を開いた楸瑛に、正確に言うなら服の下から現れたやつの胸板や腕に目を見開いた。
「 ……なっ」
「うむ、絳攸は気づいていなかったのだな。余もまさかと思ったのだが、」
「なぜ、」
「それは、分からぬ」
「何処かおかしいですか、さきほどの武官達も同じ様なことを言っていたんですが、……」
未だ状況が飲み込めていない楸瑛に(まぁ記憶がないから当たり前なのだが)、
主上が事情を掻い摘んで話している。
俺はその奇妙な様子を黙ってみているしかなかった。
「身体が、……縮んだ?」
「う〜ん、縮んだというか若返ったというか」
「若返っ、主上」
「だって、確実に若くなっているぞ。身長はあまり違わないが体躯が少し細い」
服の上からでなんでそこまで、と思わないでもないが、そこには敢えて突っ込まないようにした。
俺は気づかなかったけれど、武官達や主上はすぐに違和感を持ったらしい。
実際上半身を見て俺にもはっきりと自覚できた。
まず身体の線が細い、元々武官にしては細身の方であったけど。
それでも付くべき所はしっかりと鍛えられていて、力も強かった。
けれど今は、傍目には分からない微妙な差ではあるけれど、発展途上という感が否めない。
そう言う意味では、主上の言ったことは正しいのかも知れない。
縮んだ、ではなく若くなった。つまり、昔の楸瑛に逆戻りしてしまったのだ。
「えーっと、それで私は、これからどのようにすれば?」
「えっ?あー、取り敢えず何歳まで記憶があるのだ?」
「17、くらいですね。おそらくは」
「17歳か、国試を受ける前だな。となると、執務はやはり無理だろうか?」
「俺に聞かれても、そんなこと分かりませんよ」
言葉の後、何とも微妙な沈黙が流れる。
その中で俺や主上のやりとりを聞いて何か考え込んでいた楸瑛が、つと顔を上げた。
「主上、李侍郎。執務室に連れて行っていただけませんか?
其処にある書類を見て判断した方が早いでしょう」
「 ……う、うむ、そうだな」
余りの切り替えの早さに少し反応が遅れたが、俺も何とか返事を返した。
「では、出発なのだ!」
「何が出発だっ。そうだ、今日の仕事は何があってもきっちり終わらせてもらうからな」
「なっ!酷いのだ絳攸。もうこんな時間なのだぞ!」
やたらテンションが高いのは、楸瑛に気を遣ってのことだと知っている。
そんな優しい気配りを無下にするほど俺は仕事人間ではない、
ただ単にいつもの会話の延長線という事もあるのだろうが。
それが功を奏したのかどうか、後ろから付いてきていた楸瑛は僅かだが顔を綻ばせる。
その笑みに、軋んでいた心が少しだけ和らいだ気がした。
ただ、執務室に入る際、……
「まったく、厄介な事になったものですね」
楸瑛の口から漏れた言葉は、自嘲と寂寥感が織り混ざった悲痛なものだった。
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date:2006/10/14 by 蔡岐
【宿花(閉鎖されました) , "砂上の楼閣"】
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