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「えっと、あなたは、……誰?」

その瞬間、目の前が真っ白になった。




水面に映る朧月は歪んで消えた


事の始まりは、何でもな普通の朝だった。
近頃の寒さのせいか、少し早く目を覚まして。朝廷に出仕して、 相変わらず書類置き場と化している吏部で黎深様の分まで仕事を片づけた。 そして、一向に減らない書類を投げ出して府庫に トンズラしていた主上を引きずって執務室に連れて行って。

そう、そこまでは全くいつもと変わらなかった。
主上と執務室に入ろうとした時、息を切らしながら走ってくる武官を目の端に捉えるまでは。






「絳攸っ!!」

切羽詰まった声に、はっと我に返った。
主上が俺の肩を掴んでいた手を離し、あからさまに安堵したような心配そうな顔を向けてくる。
そこでようやく俺は、自分がどんな状態だったのかが分かった。

「あの、大丈夫ですか?」

目の前の寝台に座る、“青年”も気遣わしげな表情を浮かべている。
これ以上こいつを混乱させないために、 俺はともすれば罵声を飛ばしそうになる口を引き結び、 できる限り穏やかな声で「大丈夫です」と返した。
必死な余り敬語になってしまった。口元にも不気味な笑みが浮かんでいることだろう。
こいつもそれに気づいているだろうに、ただ「そうですか」と返しただけだった。

日常と何も変わらない。かけられる言葉の意味も、それを発する人間も。
ただ、……紡がれる言葉がややぎこちない事と、敬語であること、お互い目を合わせないことが この部屋の雰囲気をどこまでも居心地の悪いものに変えていた。

現実という物が、これほどまで重圧を持って俺を襲ったことが今まであっただろうか。
常春の浮ついた言葉や表情が見れないだけで、ここまで参るなんて。
否、違う。別にそんな事が問題なんじゃない。

ないんだ、こいつが紡ぐ言葉の中に、重みが。
軽薄とかそういうんじゃなく。心配されていても、どこか空虚に聞こえる。
それは発する言葉に、藍家の人間としてではない、楸瑛自身の感情が含まれていないからだ。
それだけではなく俺のことも主上のことも自分自身のことですら、 18歳で国試を受けてから築いてきたもの全ての記憶が。
無くなってしまった。

“今の”楸瑛の瞳に俺は映っていない。


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date:2006/10/01   by 蔡岐

【宿花(閉鎖されました) , "水面に映る朧月は歪んできた"】