*





寝息が聞こえる

愛しいあなたの 深く沈むような音だけが残った……




彼無月


「李侍郎」

はっ、と顔を上げる。
危ない、寝入ってしまうところだった。

「悪い、」

正面に座る楸瑛に軽く頭を下げると、苦笑を返された。

「いいえ、お疲れなんですよ」

通常の仕事もこなされているのですから、当然ですけどね。
頭を振って言い足す姿に、もう一度でかかった「悪い」という言葉をどうにか飲み込む。
楸瑛は、机に分厚い書を広げ不釣り合いなほど大きな椅子に座っている。

楸瑛がなんとも似合わない侍従のような格好で出仕してきたのは、今朝のこと。
それから、……まあ言いたくないことも合わせ色々あり、最終的に3人で府庫に籠もった。
3人居れば楸瑛の異変の解決策が見つかるかもしれない、という淡い期待もあったが、 何かしていないと落ち着かない、というのが本音だった。

日が傾き、太陽が西の空へ沈み、暗闇がやってきた。
月のない夜空は星が瞬くに任せ、静寂を取り戻している。
一昨日までの雨が嘘のようだ。

「李侍郎、」

「ん?なんだ」

いつの間にか窓へ向いていた視線を楸瑛へと戻す。
顔に遠慮と曖昧な笑みを張り付かせた楸瑛は、視線をひたりと俺に会わせていた。

「仮眠室で横になられますか?」

「……いいや、大丈夫だ」

否定を口にすると、蝋燭の光の先で楸瑛が小さく笑んだ気がした。
頑固だと呆れられているのか、それとも……
弱い光源のせいで、楸瑛の表情が判然としない。
陽の下であれば、そこからくみ取れるものがあるかもしれないが、今はうまくいかない。

「辛いなら仮眠室で休を取られてください、机上だと腰を悪くします」

「そうだな」

気遣いは素直に嬉しい。
だが、今の楸瑛に気遣われている自分が、悔しくてならない。
俺がしっかりしなくてはいけないのに、貴陽に慣れないこいつの負担を少しでも減らしてやらなければ、 と思うのに。
俺が楸瑛からもらったものを、俺はこいつには返してやれない。

「楸瑛」

「なんですか?」

「お前こそ辛くないか?」

思い切って訊いてみる。
変な緊張のあまり、姿勢が少し前屈みになる。
机に身を乗り出した俺に、楸瑛は若干目を見張る。

「俺は徹夜には慣れている、仕事で連日泊まりってこともあるからな。
だが、お前は……」

「大丈夫ですよ」

「しかしっ……!」

「私も徹夜には慣れていますので」

楸瑛はにこりと、いつものお決まり笑顔で言ってのけた。
嘘っぽい、というか嘘だろう。
俺の思考を見透かしたように、楸瑛の口元がしっかりと弧を描く。

「嘘ではありませんよ。多感な年頃なので、眠れぬ夜を過ごすことも多いんですよ」

「…………」

思わず半眼になってしまったのは仕方ないだろう。
見え透いた、とはまさにこのことだ。

「睨まないでください、少なくとも嘘ではありませんから」

睨んでないっ、ってか少なくとも嘘じゃないなら本当でもないのかっ!
叫びたいのをぐっと堪える。
府庫に隣接する仮眠室には主上が居るのだ。

「主上はよくお休みになっていますからね」

「……確信犯め」

それには答えず楸瑛は笑ったままだ。
畜生っ遊ばれた、悩んだ俺の時間を返せっ!

楸瑛はそのまま視線を窓に映した。
切り取られた景色の上辺に、弱い光がぽつぽつと見える。

「そういえば、今日は朔の日でしたね」

「ああ」

不機嫌が丸分かりの低い声を出す。
楸瑛は何も言及せず、顔を外へと向け続ける。

「外など見ていないで、どんどん調べるぞ」

自分のことは棚に上げて言う。
気を抜けば吸い込まれそうな闇を見据える藍の瞳は、何を考えているのかわからない。
見ていたくなくて、書に視線を落とした時、楸瑛が話し出した。

「李侍郎、月には魔力がある、という話をご存じですか?」

「はっ?おい、急に何な――」

「月が満ち、欠ける。朔の、月無しの夜が来る。何か起こると思いませんか?」

「……はあ?」

唐突に語り出した楸瑛についていけない。
思いませんか?、とかって訊かれても何か起こるわけないだろう。
月の周期で怪異なんぞ起こされてたまるか。
眉間に力が入る。
楸瑛を凝視すると、やつは俺の視線をさらりと受け流した。

「さっき私はあなたに仮眠室へ行かれるよう勧めましたが、」

「ああ……?」

「その実、共にいたいと思っていた、…と言ったらどうしますか?」

「……なんだそれは」

「あなたと離れたくない、と考える私を、李侍郎はどう思われます」

「楸瑛」

楸瑛は、にこりと再び笑った。
揶揄われているようで、しかし奥底に何かを隠しているような表情だ。

「別に俺が仮眠室に行ったからってたいした距離じゃないだろう。
その……一緒に居たいって言うなら、お前もこれば、」

それ以上は言えなかった。
一瞬、楸瑛の姿がかき消えた。

「…っ!」

ガタリ、と椅子が鳴る。
膜が張ったようにぼやけた視界で、楸瑛を捕らえる。

「李侍郎?」

楸瑛はさっきと全く同じ場所、同じ角度で座っている。
変わったところは、何もない。

「あ、……いや、すまない。何でもない」

「そうですか?」

「ああ…目が霞んでお前が一瞬見えなくて」

今はお前が見える、目の前にいるとわかる。
その事に心の底から安堵する。

「そう……」

「楸瑛?」

どうしたんだ、と言おうとして、楸瑛に目で止められる。
楸瑛の表情は相変わらず柔らかい。

「変化が始まっているのですよ」

「変化?」

「ええ、なぜだか分かりませんが、…少し前、ふいに理解できました」

「何を言ってるんだ?」

一呼吸置いて、楸瑛が俺を見る。
俺、というより、今まで3人で過ごした時間を思い返しているのかもしれない。
意識して俺が息を吸うと、楸瑛が小さく声を出して笑った。

「記憶を失ってから、時たま『昔』の夢を見ました。
李侍郎や主上、両将軍…私の知らないはずの人達が私に話しかけてくる夢でしてね。 ……ずっと考えていたんですよ、私はどちらなのか」

「どちら、って」

「藍楸瑛がどういう男だったのかは、夢とお二人の話で粗方分かりましたから。
私は、どうなのか、と思ったんですよ」

なんだ?
つまり『藍楸瑛』は女誑しで年中常春頭で散々浮名を轟かせていたが、『この楸瑛』の場合はどうなのか、 ってことか。
そんなもの、考えたってどうにもならないだろう。

「答えなど出ない、それでも割り切れなかったんです。
……けれど、今夜で終わりますね」

「ん?」

意味が分からず首を傾げる。
楸瑛は口をつぐみ、窓の外の夜空を見ていた。
月のない、魔力の切れた黒い空には、雲さえなく星だけがそこに映っている。

「始まりは常に終わりへと向かいます、満ち月から始まったことは無の月で終焉を迎える」

「…………」

最初に感じたのは、嬉しさではなく疑問だった。
どうしてこいつはそれを知っているのか、知っていて何故平気で話すのか。

「さきほど、李侍郎が微睡まれていた時に、そこの窓から月が見えました。
あるはずのない望月が、皓々と机やあなたの頬を照らしていて……その時、理解したのですよ」

何を、とは訊けなかった。
朔の日だと知った時から漠然と感じていた不安と確信が芽を出す。

「私は今日までお別れです、明日は今までの藍楸瑛がいますよ」

顔中を緩く笑ませながら、楸瑛は俺を見ながら言う。
葛藤も恐れも何もないような顔は崩れない。
たぶん、こいつの表情は崩れないんだろう、最後の最後まで。

意地っ張りだな、本当にこいつ等は。
全部自分で決めて、勝手に実行して知らされるのはいつも事後だ。
どっち、だなんて笑わせる。
全く同じだ、あの常春もこの楸瑛も。

「そうかもな……じゃあ、今のうちにお前に挨拶しておくか」

「別れのですか」

それは酷いですね、そう言って苦笑しながら楸瑛は肩を少し震わせる。

「否、これからも世話になるからな、そのための、だよ」

「明日からもよろしく、ということですか」

それはそれで酷い、とまた楸瑛はひっそりと笑った。
俺もそう思う。
記憶の戻った常春に楸瑛の記憶があるのかはわからないが、今の楸瑛はもうじきいなくなるはずなのに、 不思議と悲愴感はない。
薄情な人間だと思う、けれど嬉しいと思う心は止められない。

「ああ、明日も変わらず忙しいんだ。
お前にもキリキリ働いてもらわなきゃならないからな」

「…そうですね」

ひとしきり笑うと楸瑛は真面目な顔をして俺を見た。
笑顔をつけていない楸瑛を見たのは、16日前の夜以来だ。
懐かしさで、顔が歪むのを抑えられない。

「楸瑛……」

俺の呼びかけに答えるように楸瑛が笑った。
本当に背の丈にあった子どものような、藍楸瑛の笑い方だった。

「明日からもよろしくね、絳攸」


月が笑う 寝息が聞こえる

あの日私の隣で眠りについたあなたの顔はとろけるように優しくて

空が白み始めるその時まで

私はあなたを眺め続ける


‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

  

date:2008/08/07   by 蔡岐

群青三メートル手前 , "彼無月"…「涓々十五題」より 】