下弦の月が地上を這う俺達を見下ろしている 細くなる月は 何かを告げるように シャンッ と啼いた 流されていくか取り残されるか、刃向かうか ここ数日ですっかりお馴染みとなった執務室の前に立つ。 扉の先に見知った気配をあることを確認し、楸瑛は取っ手に手をかけた。 「失礼いたします」 「楸瑛っ!おはようなのだ!」 「主上、おはようございます。今日もご健勝で何よりですよ」 「うむ」 余は体が丈夫だからな、今日も元気だぞ。 満面の笑みで(それこそ大型犬がぱたぱたとしっぽを振り回すような笑顔で)、 そう告げた主上に昨日の騒動の影響は感じられなかった。 初めて会った時は酷く幼いと思った。 王、などという責任を負うにはあまりにも頼りない背中のように思え、 逆に人好きのする性格と開けっぴろげな態度に安堵した。 時間がほしかった、というのが本音だ。 十日ほど前、記憶を失ったらしい日の自分は、急激に変化した環境にうまく順応できず、途方にくれていたから。 黙っていてほしかった、話したこともない名も知らない誰かに 『藍楸瑛』の過去についてとやかく説明されたくなかったし、側に付きまとわれるのもごめんだった。 自分の直属の上司だという左羽林軍将軍、部下だったというむさ苦しい男達、 執務室に行くまでに見た様々な色の官服を官吏達。 側にいることを許した唯一の例外は、同僚だという李吏部侍郎と、彩雲国の今上陛下。 その二人すら周りから見れば、順当で納得のいく判断だ、の言葉をもって評された。 私の知らない『私』を基準にされたくなかったのか。 今思えば、動揺を悟られたくなくて周囲に責任転嫁していたに過ぎない。 ただの、子供の意地で、情けない限りだ。 それでも――、と思う。 助けてくれたのは、主上だった。 この、相変わらずにこにこと顔中で上機嫌を表す青年が、右往左往していた自分をすくい上げてくれた。 その事に感謝している、とてつもなく。 「ふぅー、集中すれば意外と早く終わるものだな」 「それはそうでしょう」 当たり前のことをさも驚きという風に言う主上に、苦笑を禁じ得ない。 何を分かり切ったことを、と。 きっとこの場にいない李侍郎なら憤慨して言うだろう。 いつもいつも、主上の逃避癖(本人は休憩だと言い張っているが)に振り回されているのだから。 「絳攸は、遅いな」 「吏部での仕事が溜まっているのでしょう?」 「そう言っていたが……」 主上が微妙に言いにくそうに口をもごもごさせた理由は、ここ数日で嫌と言うほど体験した。 最初に聞かされた天才的方向音痴、というのは全く誇張ではなかった。 あれでよく今まで無事でいられたと心底思う。 ……本人には口が裂けても言えないが。 「そろそろいらっしゃるでしょう」 「……うーむ、」 だと良いのだが、と言う声も歯切れが悪い。 李侍郎に関しては、そろそろだとか、もうすぐという言葉は通用しない。 「それにしても、楸瑛」 「なんでしょう?」 「その服はいったい――」 「失礼しますっ!!」 バーンッと乱暴にあけられた扉から届いた声が、主上の言葉に被さる。 ぜぇぜぇと肩で息をしながら執務室に入ってきた李侍郎は、後ろ手で扉を閉め大きく溜息を吐いた。 そのまま前屈みになり、膝に手をつく。 「ど、どうしたのだっ絳攸」 「どうし、たのもこうした、もっ、……あるか」 「李侍郎お茶をどうぞ」 「苦しいなら無理に話さなくて良いぞっ、絳攸」 私と主上が同時に発した言葉に、李侍郎は少しだけ顔を上げる。 よくは見えないが笑った気配がした。 「ああ、……悪い、助かった」 李侍郎は茶を受け取り一気に飲み干すと、静かに息を吐いた。 ちらりと主上を窺うと、ばっちりと目が合う。 朝廷随一の才人が回廊を走ってくるなど、かなりの大事だ。 そんな私達の視線に気づいたのか、李侍郎は僅かに視線を逸らし口を開いた。 「ああ、すまない。たいしたこと……は、大したことだったんだが。 あれだ、…………龍蓮にあった」 「は?」 「龍蓮に、ですか?」 異口同音に疑問を投げた私達から視線を逸らしたまま、疲労がありありと見える顔で李侍郎は頷く。 「ああ、笛を吹かれた」 それだけで状況説明に事足りてしまうのは何故だろう。 我が弟ながら、なんてはた迷惑な。 「たぶん、道案内をしてくれたんだろう。そう思いたいだけだが……」 「道案内?」 鸚鵡返しに主上が訊く。 こく、と頷く李侍郎は僅かに口の端を上げていた。 「早く執務室へ行け、とせっつかれる感じだったからな」 李侍郎がそう感じたのなら、おそらくはそれが事実なのだろうが、 ……あの龍蓮がどうやって、しかもよりによって横笛で朝廷内を案内したのかは不明だ。 「そう、なのか」 ふむ、と頷いてにぱりと主上が笑む。 「ともかく絳攸が来てくれて良かったのだ」 「ほお、そういうからには仕事は捗ったのでしょうね」 「もちろんだぞっ」 さあ見てくれ、と言わんばかりに腕を広げ机を指さす姿はとても二十を越えているようには見えない。 李侍郎も呆れたように溜息を吐き、主上の指の先に目を向けた。 その瞳がこれでもか、と見開かれる様を、得意げに胸を張って見る主上がおかしい。 私は思わず笑った。 「まったくっ!これほど素早く仕事を片づけられるなら、普段からしてください!」 怒っているというより、日頃ヤキモキしていることへの愚痴だろう。 半分といわず、ほとんど終わっていた仕事を目の前にして驚いた後、 李侍郎が最初に取った行動は、主上の熱を計ることだった。 なにやら、発熱すると異様にハイテンションになる性質らしい。 そんなこんなで、昼過ぎには今日の全ての仕事が終わってしまった。 さてどうしよう、と思案した結果、私達は今府庫にいる。 「うう、いつも頑張ってはいるのだぞ。ただ、今日は少し興が乗ったというか…」 「あなたは気分で左右されすぎなんですっ」 「まあまあ、」 なんだかんだ言いながら、調べている書物から目を離さない彼らは真面目だと思う。 卓を囲んで黙々と蔵書を読みあさる王と側近という、なんとも珍妙な光景だが、 気にとめるものはこの中には居ない。 さきほどまで一緒に調べてくれていた紅邵可様は、用事だとかで早めに帰宅された。 主上が言い出した『府庫で肉体逆行と記憶喪失に関する本読み漁り会』が始まって一刻。 読み漁りってなんだ!?しかも会って!! という叫びのクレームはあったが、決行すること自体に異論のある人間はいなかった。 一昨日と、昨日と。 三人の関係を再び変質させた出来事は、案外悪いことだけではなかったようだ。 少なくとも、私の体の不可思議な現象を三人で解明しようとしていることは、 会ったころなら考えもつかなかった。 確実に近づいてゆく二人との距離が、嬉しい反面、酷く心を揺さぶる。 これは決して享受してはならないぬるま湯なのだから。 私はいずれ『藍楸瑛』に戻るし、戻らなければならない。 その事を望む者は多い、私の知る限り、あの意味不明な弟を除く全員だろう。 時たま見る過去の夢、それを私は未だこの二人に言えずにいる。 「そういえば楸瑛」 「なんですか?」 「さきほど言おうとしていたのだが、……その服はどうやって手に入れたのだ?」 純粋な疑問を口にしたのだろう主上を前に、私は口の端が引きつる。 悪意がないことほど厄介なことも、やはりないのだろう。 張り付かせた笑顔が、強張っていないことを、心底願う。 恨むよ龍蓮。 まだ貴陽のどこかにいるだろう弟にむかって、このときばかりは呪詛を吐きたい。 私が着ている服は薄い萌葱色で統一された、お世辞にも美しいとは言えない簡素な服だ。 別にそれだけなら構いはしない。 この体型で藍色を纏って出仕できるとは思っていなし、別に出るところへ出て困るほどの服でもない。 品自体は非常に良い。 だが、この服は恐ろしいほど私の体型にぴったりなのだ、長さも太さも全て誂えたように感じる。 実際には、刻一刻と変わる私の体型に合わせるなどほぼ不可能なのだが…。 「龍蓮が、どこからか出してきましてね」 今朝の万感を言葉に注ぎ込む。 その一言で場が凍り付いたように感じたのは、決して気のせいではないと思う。 今日で二回目の龍蓮の話題と、二度目の李侍郎の望月のようにまん丸の瞳を見て、 漏れたのはやはり笑いだけだった。 振り子の戻りに反発を憶えるほど、愚かで虚しいことはない。 その事を私は誰よりよく知っている。 date:2008/07/28 by 蔡岐 【群青三メートル手前 , "流水/流されていくか取り残されるか、刃向かうか"…「悠久十題」より 】 |