壊れた関係 恐い、純粋にそう思った。 国試以来の腐れ縁で羽林軍の将軍職にある男。 腕がたつのは、それこそ文官時代から知っていたし実際に剣を交えて相手を切り伏せる姿も見たことがある。 それでもこの男を怖いと思ったことはなかった、例えどれほどの殺気を放っていても。 それなのに、・ ・ ・ ・ ・ ・。 目が逸らせない、逸らすことを許さない強烈な視線。 その瞳に映るのは、瞋恚の炎。 しかしそれ以上に自分の心を捕らえるのは、水面の月のように揺れる藍。 知らない、こんな楸瑛を俺は―――――― それは喪失を恐れる子どもの瞳、かつて俺が黎深様に暗に向けていたものと同じ。 なぜ、こいつがこんな目をするんだろう。 絆が切れる事を何より恐れているのは俺の方なのに。 何故誰もを魅了する血統を、容姿を、才気を持つ人間が、―――――こんな寂しい目をしている? 「ねぇ、絳攸。それとも答えてくれる気すらない?」 静かで優しい声で、上辺だけはどこまでも冷静で絶対に素なんてみせない。 けれどこいつの目は全く真逆の事実を俺に訴えかける。 くそっ、泣きたいのはこっちだっ! 多情で、こと色事に関しては蝶のように華の中を飛び回って、一所に留まることがない。 そんな最悪男にあろう事か自分が、恋愛初心者も良いところの自分が、 あり得ない想いを抱いていると自覚した時。 そのときの心境を目の前の男にぶちまけてやりたい、襟首を掴んで揺さぶりながら。 或いは、 今すぐここから消えてしまいたい。 出会いを後悔したことはないけれど、このままでは握っている手を離せなくなってしまうから。 今は華の間でふらふらしているけれど、いずれこいつも妻を娶るときが来るだろう、 藍家直系という肩書きに見合う高貴で可憐な姫を傍らに置く日が。 そのとき、果たして俺は ・ ・ ・ ・ ・ ・。 この目がいけない、こいつが孤独な、縋るような目で俺を見るから。 だから俺は。馬鹿だと思っても、突き放すことができないんだ。 離してしまえば、もう二度と解けた糸を結び直すことはできないから。 表面上はいつも通りに繕ってみせて、けれどその瞳に俺を写すことはなくなってしまう。 ふっ、と俺の肩を掴む腕から力が消える。 えっ?と思った時は、既に楸瑛の背中しか見えなかった。 な、んで ・ ・ ・ ・ ・ ・ さっきまで俺を捕らえていたのはお前だろう。それなのに、何故今度は離れていくんだ? 今だけじゃない。 黎深様のために受験した国試、周りには誰もいなくて。 唯、拾い子である俺と黎深様への口汚い言葉だけが視界を埋め尽くしていたあの時。 感情を露わにすることもできず、ただただ書を捲っていた俺に。 最初に声を掛けてきたのは、―――――― 「―――― 待てっ!!」 声に楸瑛の肩がピクリと揺れ、足が止まった。 驚いた、 楸瑛も驚いたのだろうが、声を発した自分の方がさらにびっくりした。 普通に、怒りをやつに伝えてられるだけの声量、のつもりだったのだが ・ ・ ・ ・。 府庫はおろか、もしかしたら内朝にも聞こえているかもしれない。 「なんだい?」 振り返った楸瑛は笑んでいた、氷の瞳の中に一滴の哀しさを織り交ぜて。 それは武人が戦場で身につける仮面のような、比べようもなく強固でしかし何よりも脆いもの。 この男を、もう、恐いとは思わなかった。 「本気で言っているのか?、と訊いたな。」 「ああ。答えてくれる気になったんだ。」 その声は表情と同じように抑揚がなく、どうでもいい、そう言われているようだった。 そこで、改めて自分の心に小さな小さな空洞が在ることに気づいた。 俺はこいつに何を言おうとしているんだ? 『先ほどの言葉を本気か』、と問われたならば、答えは『否』だ。 けれど、何故自分がそのような事を言ったのか、そう問われれば簡単には答えられない。 それはつまり、‘今’の終わりを意味する。 国試の時から近づき続けて、双花菖蒲と呼ばれ、ぴったりとくっつくほどにまで近くなった自分と楸瑛の線路。 けれど、決して交わることのなかった道。 どれほど近くなりはしても境界線はいつも明確に引いてあって。 俺も、そして楸瑛も、どれほど打ち解けあっても踏み込みはしなかった。 それより先は完全に他者の領域で。迂闊に覗きこめば、ただでは済まないという確信が越えることを躊躇わせていた。 そこに俺は、踏み込もうとしているのか。しかも土足で、 果たしてそんな事が許されるのか? 呼び止めたにも関わらず、固まった俺に痺れを切らしたのか楸瑛が口を開き、 だがそれはすぐに、誰とも分からない人間によって阻まれた。先ほどの俺の怒声に勝るとも劣らぬ激しい声に。 「 ・ ・ ・ 処だっ、探せ!まだこの辺りにいるはずだっ!!」 その声の意味を理解すると同時に楸瑛に腕を捕まれていた。 いつの間にか目の前に広がる藍に目を奪われる。 「行こう、このままじゃ少しまずい。」 珍しく焦った声音が上から振ってきたかと思うと、そのまま勢いよく引っ張られる。 「おっ、おい待て、常春っ ―――――」 「黙って、」 早口で咎めるように言われれば、さすがの絳攸も二の句が告げられない。 府庫を出、そのままかなりのスピードで外朝を進んでゆく。 楸瑛に引きずられるようにして歩いた先はとても見慣れた場所だった。 その見慣れた場所にある、最も縁の深い部屋へ押し込まれるように入ると、 先ほどまで絳攸を拘束していた腕はいつの間にか解かれている。 パタンという音が後方から聞こえた。 「なんで、逃げなければならないんだ。」 「 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 念のために。」 顔を見ずに問えば、返ってきたのはなんとも要領を得ない言葉。 再び、自分の中で黒く濁った物が這い回ってゆく。 「戻る、このまま居もしない賊を探させ続けるのは酷だ。」 「君が府庫まで?駄目だよ、戻れる訳がない。」 それは一緒に着いていく気がない、という事。 「行けるっ!!それに巡回している武官を呼び止めれば良いだけだっ!」 「絳攸っ!」 生暖かい物が体を包んだ。腕を動かそうにもそれが邪魔でぴくりともしない。 「行かせないよ、絶対に。」 悲痛な色を帯びた言葉に、胸の奥が一際高く軋んだ。 「 ・ ・ ・ ・ ・ ・ な、んで」 どうして放っておいてくれないんだ。 これ以上、惨めな想いなどしたくないのに。 お前の行動一つで右往左往するこの感情は、俺自身を、なによりお前を傷つけることしかできないから。 だからこそ、今のうちに終わらせなければ。 「離せ ・ ・ ・ ・ 離してくれ、」 けれど、優しい腕の男はどこまでも否を吐き続ける。 「 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 何故だ?」 はぁー、と心中で溜息を吐き、できるだけ冷静で少し穏やかな声音で、同じ質問をした。 余韻が少し湿っぽくなってしまったことには、どうか気づかないで。 もう覚悟を決めるしかない。 こいつに本気の女ができたなら、笑えはしなくてもせめて泣きついたりしないために。 自分の中で蜷局を巻く感情を相手に告げることも、それで男相手にと軽蔑されたとしても。 例えそうでも、今こいつの腕の中にいるのは誰とも知れない女じゃない それが何より愚かで卑しい考えだとしても。今はもう、それだけで良い、十分だ。 「楸瑛、その俺は、」 「今の君を、誰にも見せたくない。」 被せるように言われた言葉が一瞬うまく聞こえず、少し焦った。 どうにか聞き漏らさずに脳に運ばれたそれを、しっかりと咀嚼するのにどれ程要したのかは分からない。 気が付けば、「はっ?」と何とも間抜けな声を漏らしていた。 「誰にもね、見せたくないんだよ。・ ・ ・ ・ ・ ・ あぁ、少し違うね、」 普段の君もね、 本当は常に私だけの鳥籠に繋ぎ止めて、永遠に誰の目にも触れさせたくないんだ、 独り言のように淡々と語る男はどこまでも波立たず真剣で、聞いてるこちらが動揺してしまうほど。 「分かってる?今の君、涙の後が付いていて、とても扇情的なんだよ。」 そんなこと、分かる訳無いだろう 「そんなんじゃ、どこぞの男に簡単にお持ち帰りされてしまう。そんな事は、私が許さない。」 「なっ! ・ ・ ・ ・んなこと、あるわけ。」 「あるよ、いつも言っているだろう? 君はとても綺麗なんだよ、少なくともその気のある男には傾国の美女に映るだろうね。」 どうして理解してくれないかな、などと言ってのける。 あまりの馬鹿馬鹿しさに絶句する。 お前の方が全く意味不明だ、これじゃまるで、 「ねぇ、絳攸。君に私はどう映ってるの?」 期待などしてはいけない、馬鹿を見るだけだ。 『まるで』、の先なんて考えるとろくな事にならない、 こいつのとって俺は、手のかかる唯の同僚にすぎなくて。 「それは、・ ・ ・ ・ ・」 なんとか答えようと口を開くが、それから先が続かない。ただ、無駄に口を開閉させるだけ。 「私はね、君が好きだよ。本当に愛してる。」 こいつは全く俺の話を聞く気がないようだし、・ ・ ・ ・ ・ ・ ・って。 「―――――――― は?」 今なんか変な事を聞いた気がする、 反応を返せない俺に楸瑛は薄く苦笑した。そして静かに密着させていた体を離す。 俺とやつとの間を再び満たしてゆく空気にまで反抗心を抱かせる男は、こいつくらいだ。 「あぁ、もういいね。だいぶ腫れも引いてきてる。」 そう言って小さく微笑む男に、胸が潰れそうになる。 こいつは無かった事にしようとしている、今日起こった事全て。 俺の異様な振る舞いも、さきほどやつ自身が暴露した失言も。 藍楸瑛という男が、酷く臆病に見えた。 否、きっとこれがこいつの本性の一つなんだろう。 自信家なのに後ろ向きで、 人の扱いに長けていて向けられる感情の差異にはとことん敏感なのに、 一種の好感には時々だが俺以上に鈍感だ。 「楸瑛っ、」 咄嗟にでた言葉は、どこか悲鳴じみていた。 優しく、できる事ならもっと平穏な空気の時に発したいと思っていた言葉。 そういえばそんな事を思った事もあったな、と。 後で笑って言えるような形でこの想いを消化してしまいたかったのだが。 だが仕方ない、今言わなければ、たぶん、一生言えない気がする。 それならそれで、・ ・ ・ と脳裏を掠めた打算をうち消す。 『少なくとも』なんかじゃない、今伝えなければならないんだ 「俺もだ、」 小さな呟きだったのに、それは予想以上に気恥ずかしさを煽る。 だが、拘束を解き、室から出ようと体を反転させかけていた男の動きが止まって、その事に泣きたいほどの安堵を覚えた。 「俺も、その ・ ・ ・ ・ ・ ・ お前の事、」 好きだ、 続けようとした言葉は、再び小憎たらしい男によって遮られた。 date:2006/09/23 By 蔡岐 【宿花 , "壊れた関係" …「何でもありな100のお題」より】 |