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クリスマス小説から話が続いています。
まずは、「こちら」からお読みください。





小雨がしくしくと、昼間温められた空気の中を降りていく。

俺はさっきまで掻き混ぜていたホイップ入りのステンレスボールを置いて、目の前で手を合わせる旦那の後頭部を黙って見つめる。
――何、言ってんの?旦那。

「え、」

口からは、こんな惚けた声しか出ない。

「すまぬ、佐助。明日は某少し所用で家を空ける故。その、…チョコは、」

――あまり、要らぬ。

旦那から発せられた言葉が脳内でリフレインする。
ぼーっと返事もしない俺と、申し訳なさそうに頭を下げる旦那なんて、端から見たらなんて奇妙な光景だろう。
返事をしなきゃ。
「あっ、そうなの?ふーん。まあ、良いよ。行っておいで?」――と。
少し気に入らない様子で、でも了解してあげないといけない。
俺様はそういうキャラで、これからもそのスタンスで通していくはずなのに……。

喉がカラカラに渇いている。
声を出せという理性の命令を、感情が拒否するのは初めてだった。




気がつけば、僕は、溺れていた



土曜の朝に、上杉先生宅に押し掛けると、そこにはやっぱり上杉先生から留守番を頼まれたかすがちゃんの姿があった。
門前払いをどうにかかいくぐり、俺は現在テーブルの一角を占拠している。
のだけれども。
押し掛けたのが自分だけじゃなかったことにすら、今まで違和感を抱かなかった俺って、かなり終わってる気がする。
かすがちゃんに眉を顰められても仕方ない。

慶次は俺の暗鬱な気分を逆撫でするが如く、楽しそう飴を嘗めている。

「まるで、生きた屍だな」

「ははっ。かすがちゃん、何それ。キョンシー?」

「貴様のことだ。馬鹿者っ」

……分かってる。
こんなのは俺じゃない。
俺はいつでもどこでも軽く楽しいキャラなのだ。これでも、一応。

くたり、とテーブルの上に項垂れる俺の前で、かすがちゃんは鬱陶しそうな顔でココアを飲んでいる。
かすがちゃん。
そのチョイス、微妙に傷つくよ。
今はもう、ココアもチョコもバニラエッセンスも。
薄力粉も砂糖も卵もベーキングパウダーも。そんでもって、各種調理器具も、何も見たくないし聞きたくもない。

――存在自体抹消したい。


「八つ当たりもそこまでいくと、いっそ天晴れだな」

「俺、口に出してた?」

さらに渋い顔で頷くかすがちゃんに軽く目眩を覚える。
ヤバイ、…かもしれない、俺。
かすがちゃんの横の席では、慶次が飴ちゃんを嘗め終わったようで、勝手知ったる何とやらーで、ポットでお湯を注ぎ、 ココアを作って飲んでいる。

「つか、なんで慶次までいるのさ!?」

「それは、私も聞きたい。何故、貴様が謙信様のご自宅に…っ!」

俺とかすがが詰め寄ると、ぱちくりと慶次が瞬いた。
「何で?」と顔に書いていて、俺達の疑問が何故か分からない、と言った風情だ。

「え。かすがちゃんがケーキを作ってくれるからって、謙信に呼ばれ、」

「ええいっ。謙信様を呼び捨てるなと何度言ったら分かる!!!」

「まあまあ、かすが。落ち着いて」

本当に上杉先生のこととなると、かすがは短気を通り越して危ない人になる。
――旦那とそっくりだ。
大将を尊敬する旦那と、時々かすがは凄く似ている。
旦那のことを考えると、昨日のこともセットで出てきて何とも言えず空しい気持ちになるけれど、それでも思わずにはいられない。

今日どこに行ったのか、とか。
誰と何をしに行ったのか、とか。
その用事は、無数のお菓子の誘惑より……俺とのバレンタインの約束より大事な事柄なのか、とか。

浮かべだしたらキリがない。

「おい、佐助!」

「…え?」

「気づいていないのか。酷い顔だぞ」

酷い顔ってどんなだろ。
造作のことを言ってるのではないことぐらいは理解できる。
…が、鏡のないリビングでは、自分がどんな表情をしているのか分からない。

「大丈夫だって!幸がしーちゃん以外に女なんている訳ない。夜までちょっと待ってみなよ」

「夜まで?」

慶次が自信満々に、ココアを啜りながら言う。
俺が眉を寄せた時、かすがちゃんは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「前田。貴様、何か知っているのか?」

「え、」

「真田の動向だ。何か確信があるのか?」

かすがちゃんの詰問に慶次はあからさまに狼狽える。
その様子は十分に怪しいけれど、仮に慶次が旦那を誑かして何かを仕組んでいたとしても、 俺の用事より優先されたという事実は変わらないわけで…。

――ああ、なんかマジで凹む。

「何なんだろうね。…旦那がケーキよりも優先する、事って」

あの人が、甘い物が大将の次くらいに好きな真田幸村が、その約束を蹴ったのだ。
しかも理由を聞いても教えてくれなかった。

「そもそも真田はどこへ行ったんだ?佐助」

「…知らない」

「え。知らねぇの?誰かと一緒ってことは?」

「だから、分かんないって!旦那、聞いても全部はぐらかすんだよ!?」

思わず大声になってしまう。
驚いたように目を見開く慶次とかすがに、はっと我に返る。
慌てて口を噤んで、テーブルの上に突っ伏した。

――末期だ。果てしなく。
俺って、こんなに旦那に依存してたんだ。
「あちゃー。幸の馬鹿ぁーっ。」とかなんとか唸る慶次の声が遠くから聞こえる。
旦那のこと馬鹿って言うな、馬鹿慶次。

ふぅっ、と別の考えが浮かんだ。

――俺は、むしろ今まで旦那のこと縛りすぎてたんじゃないのか。

縛る、と思った時に、一瞬浮かんだのはあの、赤い月だった。
駄目だ。
あれを思い浮かべると、いつも正常な判断が難しくなる。

あの人だって、既に高校2年生だ。
いくら幼馴染みで、小さい頃からのあれやこれやを知っていて気安いと言っても、限度があるのかもしれない。
友達とどこか出かけたり、一人でいたい時もあるはずだ。

「誰か、可愛い女の子とバレンタインデートを、したりしてるのかなぁ」

「ないないないないっ、幸に限って絶対にない!」

全否定の慶次に、何故か俺はムッとする。
なんでわかんのさ。現に旦那は昨日急に用事が入ったってチョコキャンセルしたんだよ?
彼女さんとかが、デーとしようって言ってきたのかもしれないじゃない!

「なんでっ!旦那って結構モテるんだよ!?」

「でもっ。もう幸には、しーちゃんがいるだろっ!?」

俺と同じ勢いで喋った慶次の言葉を咀嚼するのに数秒を要した。
なんだって?

「……はぁ?」

自分での心底間抜けだと思う声が喉から漏れる。
俺がいるって、……旦那に?
それは、どういう意味でだ。

「佐助。貴様まさか、まだ真田と付き合っていなかったのか?!」

「かすがちゃんまで何を…、」

「ええ!だって、しーちゃん幸に告白したんじゃねぇの?クリスマスの時」

二人が目を剥きながら、俺にテーブル上で詰め寄ってくる。
体を反らして、椅子の背にもたれ掛かりながら、考える。

確かに、告白は…した。
なんで慶次がその事を知っているのかは、今は置いておくとして。
クリスマスの夜に、自分の中の焦燥に負けて告白したのは事実で、旦那からも『ずっと、好きだった』と言ってもらえたけれど。

…………あれぇ?


「私は、貴様が真田の浮気を懸念していると思っていたんだが、」

「……」

「幸にそんな甲斐性有る訳ねえよ!」

「……」

かすがの言葉にも、慶次の失礼な台詞にも、俺は声を出せない。
俺達、付き合ってたっけ?
頭の中を、ぐるぐるとカレカノという単語が回っている。
告白して、受けてもらえて。それから、何か言葉があったかと言われれば、…ない。
この場合どうなるんだ。

「俺、帰るわ」

これは、家でしっかり考えた方が良い。
そう思って椅子を引く。

「しーちゃん?」

ぽつりと言って、立ち上がる俺にかすがちゃんが釣られたように席を立って、こっちに来る。
眉を寄せた、心なしか心配げな顔に笑いかけて、玄関へ向かう。
ちらり、と腕時計を見ると、もう3時を回っていた。
時間が経つのは早い。俺がここに来たのは10時頃で、まだ昼過ぎだと思っていたのに。

「佐助…」

かすがの呼びかけに答えようとした時、がちゃりと俺の後ろにある扉が開いた。
入ってきたのは、正真正銘この家に主。


「け、謙信様ぁああーーー!!」

顔を見た瞬間、へろんっとなってしまったかすがは放っておくとして、俺は突然帰ってきた上杉先生を仰ぎ見た。
怜悧な顔に仄かな笑みを浮かべて、先方は俺を見下ろしている。

「おや?きていたのですか、わかとらのおさななじみ」

「猿飛ですっ」

この人は、一体いつまで俺のその呼称で呼ぶ気なんだろう。
旦那を呼ぶ時は、普通に「真田」って呼ぶ方が多いのに。

「今、帰ろうと思っていたところです。お邪魔しました。」

「それは、なんのもてなしもできず、もうしわけなかったですね」

「いえいえ。かすがちゃんにもてなしてもらいましたよ」

あ、ヤバイヤバイ。
この人と喋ってると、たまにこっちまでひらがなオンリーに言い方になってしまう。

「おっ、謙信!やぁっと帰ってきたっ」

「前田!貴様、また呼び捨てに……っ!」

「いいじゃん!!」

「良いわけあるか!」

かすがちゃんと慶次が毎度の言い争いをぎゃーぎゃーと始めたのを見て、俺は本当に退去するべく、上杉先生に頭を下げた。
そのまま、扉を出ようとすると、何故か呼び止められる。

「何です?」

「いえ。そういえば、さきほどわかとらにもあったのですよ」

「え、旦那に?」

「はい。ほおをあからめていえにかえりついておりました」

頬を赤らめて、って……しかも、旦那が家に帰ってる?
じゃあ、なおさらに早く家に帰らなきゃ。

「上杉先生、失礼しました!」

そう言い放つと、俺は返事も聞かず全速力で武田家へ走り出した。















「旦那!!」

「お、おお。佐助今帰ったのか!」

武田家の玄関扉を乱暴に開け、旦那の居場所を探し回っていると、旦那は台所からひょっこり顔を出した。
頬は赤く染まっていないが、嬉しそうに顔を綻ばせている。
俺はその表情を見て、一気に沈んだ。
いつもなら、「何か良いこと有ったの?」とこちらも笑いながら聞いてやれるはずなのに。

「佐助?そんなに慌ててどうしたのだ」

「え。…いや、何でもないよ」


冷や汗が伝う。


旦那の背後に赤々と輝く有明の月が、この目に映るから。

本当に、この月を見るとろくな事がない。
思えば、クリスマスの時もこの色とこの形状のせいで倒れたんじゃなかっただろうか。


「…具合が悪いのか?」

気が付くと、旦那が目と鼻の先にいて、思わず半歩さがる。
びっくりしたぁー。
全然気が付かなかった。
心配げに眉を寄せる旦那の顔は至って普通で、どこにも俺の懸念したような雰囲気はない。
その事にほっと息を付く。

生まれつき鋭い嗅覚を駆使してみても、女性のシャンプーや香水の匂いは感じない。

「ううん。大丈夫だよ。…ねえ、旦那」

「何だ?」

首を傾げる旦那に、思い切って言ってみる事にした。
いつまでも、うじうじって言うのは、俺の性に合わないから。



「俺のこと、――好き?」



徐々に目を見開いていって、俺を凝視する旦那を、じっと見つめる。

赤月はどうしても俺の理性を狂わせる力があるらしい。
旦那に好意を持って、早6年。
短い期間に二度も告白と告白めいた事をするとは思わなかった。
でも、確かめたい。
恋には、相手に向ける熱情と同じだけのものを返してほしいという願望が付き纏うから。

それに。
どんどん脳裏に現れる三日月が大きくなっている気がするのだ。
黄色ではなく、青白くもなく、濡れたように赤く揺らめく月は、俺の思い出さなくても良い記憶や感情を揺り動かそうとする。
もう一人の「オレ」が、時たま「俺」を呼ぶ声が聞こえる。



「クリスマスの時、好きって言ってくれたでしょ?あれは、本当?」

旦那は黙ったままだ。
好きじゃなくても良い。…何か言ってほしい、と切実に思う。

その時、ふいに旦那がポケットを漁りだした。
何だ、と思ってみていると、取り出したのは小さな紙の袋で、旦那はよれよれの袋の封を開けカランッと中身を取り出す。
中身を握りこんだ手を、そっと俺の前に差し出してくる。

「本当は夜に渡すつもりだったのだ」

「え、」

何のことか分からず、首を傾げる。
旦那の手は俺の前に出されたままだ。
受け取れ、ということか。
俺がおずおずと受け皿を作るように、旦那の手の下に両手を差し出すと、そっと小さな重みの物体を手のひらの上に置かれた。

「……っ」

声が出ない。

俺の息を呑む音に、旦那は一歩二歩と近づいてくると、ゆっくり俺の頭を抱き寄せた。
それでさらに身体が硬直する。
抱きしめられる形になる。
……そもそも、何でこんな事になってんのかわからない。

――どうして、こんな物をもらったのかも。


「あの時も言ったであろう。俺は巫山戯て女性に手を出したりはせぬ、その相手が佐助であるならば、猶の事だ」

「旦那…」

それ、ものすごい告白の言葉に聞こえるんだけど。
俺達好き合ってるって思って良いの?

「これ、買いに行ってたの?」

「…俺は、佐助に贈り物などほとんどしたことがなかった事に気づいてな。バレンタインで、 佐助が俺の好物を作ってくれるというのに…」

「や。そこは気にしなくても、」

俺が好きでやってるんだし。
正式な決まりはないけど、日本のバレンタインは女子がお菓子あげるものだって、大方常識みたいになってるし。

「気にするっ。…それで、政宗殿と慶次殿に相談して。それを、」

「買ってくれたの?」

俺の手のひらにおさまるのは、シルバーの小さな小さな指輪だ。

こくり、と微妙に顔を逸らして頷く旦那に、じわりじわりと温かい物が込み上げてくる。
慶次はやっぱり知っていたのだ。
月曜日文句を言ってやろう、と今にもにやけそうになる顔を引き締めながら心に決めて、 おれはつぅっと視線を逸らしたままの旦那を覗き込む。
抱きしめ合ったままの状態で、本当に今にも額にくっつきそうになる。

「ねえ、旦那。俺達付き合ってるの?」

俺の言葉が意外だったのか、真っ赤になりながらも旦那は俺をはっきりと見た。
視線が交わる。
その事に、この上のない幸福を感じる。

「俺は、そう思っていたのだが。…違うか?」

自信なさげに訊いてくる様子に、唇が弧を描く。
ふるふる、と小さく笑いながら首を振った。

「ううん。違わないよ、幸村」

「!!さ、さすけっ、今っ名を!」

驚き、慌てふためく旦那の背に腕を回し、ぎゅーっと抱きしめる。
ますます顔全体を紅く染める旦那を見て、笑う。
きっと、俺の顔の同じような状態だろう。

脳裏に浮かぶ赤い月は、旦那といる時だけは薄まって、あるいは見えなくなっている。
いつかあの細月に想いが支配される時が来ても、この人がいてくれれば、「おれ」は「俺」でいられると思えた。


「旦那。俺、あんたがいらないって言うから、あんまりお菓子作ってないよ?」

「な、ああ。構わぬ」

旦那の口からはき出される吐息が俺の耳元をくすぐる。
くすぐったい!と、首を振る俺を「佐助、」と低い声で呼ばう。

――佐助がいてくれるなら。

そう聞こえた。
俺は真っ赤な顔を隠すために、旦那の胸に顔を埋めた。



date:2009/02/14   by 蔡岐

Aコース , "気がつけば、僕は、溺れていた"…「哀歌・水面に映る月に恋をした。の5題」より】