赤みがかった月が脳裏に浮かぶ。 昔々に読んだ絵本のイラストのような満月に、俺は何故か涙を流す。 水面に映る月に恋をした。 もうすっかり痩せ細ってしまった有明の月が、夜明けの空を西に降りていく。 「あー」 (しくったなぁ。) 明らかに寝不足の目をごしごし擦って、俺は腕に抱えている参考書に目を移す。 そこには、くっきりとヨダレが垂れていた。 「またやっちゃった……。」 こう毎日となると、もはやそれほどの感慨もない。 ちくしょう、と小さく呟いて、俺はごろりと寝返りをうって白い天井を見上げる。 そこに映るのは赤い残像だ。 (また、だ。) しらず眉間に力がこもって、俺は乱暴な手つきでそれを振り払った。 「佐助、どうしたのだ?」 「……え、」 旦那の声が耳元でして、俺は一気に覚醒した。 すると目の前に、忽然と道路が現れて、俺の横を近所のおじいさんが乗った自転車が通り過ぎていく。 俺は下校中だった。 「旦、那?」 音の方を振り向くと、旦那が難しい顔をして俺を見ている。 しまった、と心の中だけで思って、俺は何食わぬ顔で「何?変な顔しちゃって。」と笑み付きで言い切った。 「お前こそ、随分変だ。疲労困憊と顔に出ておるぞ。」 腹立つ事に、旦那は乗ってこなかった。 いつもなら、「な、へへ変!?失礼なっ佐助!某は、普通だぞ!!」と意気込みすぎてどもりながら叫び出すのに。 変な知恵つけちゃったなー、旦那のくせに生意気な、とはこれも声には出さずに思った。 「佐助。」 「あー何でもないですよ。考えすぎだって旦那、俺が寝不足だなんて有り得ないでしょ?」 「う、む。まあ確かに。」 簡単に丸め込めるところはやはり旦那だった。 どこら辺で「寝不足なんてありえない」と思われているのか。まあ、今日のところは何も突っ込まずにおいてあげよう。 好機を逃さず、俺はにっこりと笑みを作って別の話題を振る。 「ねぇ、それより旦那。今日のご飯何がいい?今日は何でも作ってあげるよ。」 だってクリスマスだからね。 そう言って、俺は旦那より前を歩く。 慌てて横に並び、好きな物を言い出す旦那をくすくす笑いながら俺達は家へ、武田の大将宅へ一緒に帰る。 「ケーキは?」 「ありますよ。あんた一週間前にどんなのが良いかって聞いたの、もう忘れたの?」 「覚えておるぞ!あのチョコのやつか!?」 「そーそー。もう一つ、ブルーベリーとレアチーズのやつもあるよ。」 「佐助が好きなやつだな!」 そう言って満面の笑みを見せる旦那に、俺の思わず本当に破顔する。 旦那がいるだけで、側で笑ってくれるだけで、それだけで全てがうまくいきそうな妄想に、毎度俺は囚われる。 旦那が、幸村が、ずっとずっと俺の側にいてくれたらいい。 たとえ彼が俺を本当の意味で見てくれなかったとしても、せめて一緒に居てくれさえすれば……、そうすれば俺は、今を生きていける。 「佐助の料理は何でも美味いからな!」 大好きだぞっ!! 惜しげもなく嬉しい言葉をくれる貴方だから、俺は何でもしたいと思ってしまう。 ははっ、そりゃありがとう。 そう軽く返して、俺は旦那にもらったうきうき気分の中、ふと空を見上げた。 冬とはいえ、まだ青い空。 東から来る夜と西から来る夕焼けに挟まれて、それでも青い空には雲もなく、どこまでも見渡せる澄んだ色を湛えていた。 「ねぇ、だん――――」 振り返って、旦那いい天気だね今夜は星がきれいだよ、そう言おうとした。 視界に旦那の茶色く柔らかい髪を捕らえた瞬間、俺の意識は東の空に向いていた。 「赤い、」 「ん、どうした佐助。」 赤い満月が、赤い猫の目のような有明が、見える。 仲良く夜色の空にだぶる二つの月が、じーっと遙か天上から俺を見つめて、俺を見下ろしている。 「あ、」 ああ、駄目だ。 囚われてしまう、これは悪い夢だ。なかなか覚めてくれない悪夢だ。 「佐助?」 旦那の声が耳元で聞こえる。 その声に導かれるように、俺は瞼を閉じた。 「…です。俺が気を配っておれば。」 「仕方………、助をたのむぞ。」 ぼんやりと灰色の空間に漂う俺の耳に、声が聞こえる。 二人、一人は旦那だ、もう一人は誰だっけ。 なじみ深い声のはずなのに頭が働かない。 旦那以外の声がわからない、思い出せない。 悔しくて、腹立たしい。 俺様が音を識別できないなんて。 俺様がこんなに近くに人がいて気付かなかったなんて。 俺様が、悪夢に囚われている、なんて。 どこから来るのかもわからない惨めさや息苦しさに押しつぶされそうだ。 なんで俺が、こんなに自分に自信を持っているのかすらわからない。 ――――でも、昔はできた。 深い深い闇の中にいるオレが低く唸る。 かつて当たり前のようにできたことが、当たり前のようにできなくなってしまったことが、悲しい。 駄目だ、とオレが叫ぶ。 できなければいけないのだと、泣いているような気がする。 その悲鳴に近い振動に、おれまで胸を抉られる。 助けなければ、守らなければ。 でなきゃ、オレは彼の傍に存在する価値はない。居てはいけない。 「さすけ、」 ああ、旦那が呼んでいる。 旦那が呼んでいるのはどっちの俺だろうか。 今のおれは、もう旦那の気配にすら気付けない。もう旦那の身を守れない。 「目、を開けてくれ。夕飯、温めたのだ。冷めてしまうぞ?」 やさしい、泣きそうな声で呼ばれる。 旦那はずっと俺を呼んでいる。 遙か昔からおれを絶え間なく照らしてくれる幸村、俺の側にずっといてくれる旦那に、俺は重たい瞼を押し上げた。 最初に目に入ったのは、旦那じゃなくて朱黄色い蛍光灯だった。 照明が暗いのは俺への配慮なんだろう。 「佐助…、目を覚ましたか。」 ほっと息を吐く旦那に、俺は少し眩しいのと嬉しいのとで、細めた目を潤ませる。 「だんな…、」と、切れ切れに掠れた声で彼を呼ぶと、旦那はすぐに体を近づけて俺の声を聞こうとしてくれる。 「ごめんね、晩、ごはん…、クリスマスなのに。」 「そのような事っ……気にするな。」 間髪いれずに返事をして、旦那は「よかった、」と呟いた。 ほぅっと吐き出された息が示す事に、俺の目から堪っていた涙が流れ落ちてゆく。 旦那は慌てて俺の頬を拭ってくれる。 ああ、旦那が居る。 ここにいる。 おれをずっと導いてくれた強い光が、道に迷ってしまいそうな時いつも助けてくれる光が、ここにある。 「ねぇ、旦那。」 「ん?」 掠れた、聞き取りづらい声しかだせない俺に、旦那は耳を近づけたまま相づちを打つ。 それに気をよくして、俺はちょっとした悪戯も兼ねて囁くような声で旦那の耳に息を吹きかけた。 ぴくりと反応した後、旦那の肌がさぁーっと赤くなる。 俺はその予想通りの反応に、口角が上がる。 「さ、佐助っ!!」 「旦那、もうケーキ食べた?」 「は?い、いや、まだ食べておらぬぞ。」 ふるふる、と首を振る旦那に、「そう。」と溜息のような返事を返す。 先に食べるのは悪いと思ったんだろうけど、俺としては倒れた上に、あのケーキを二人で食べるってのはかなり恥ずかしい。 なにせ、あのケーキには微妙に細工してあるのだ。 頼みの綱の大将も、どうやら家に居ないみたいだしなぁー。 さっきの会話のもう一人が武田の大将だって言うのは、起きた時気づいていた。 だから、余計にこの馬鹿広い家に俺達しか居ない状況っていうのはいたたまれない。 しかも、クリスマスだし……。 今日で学校終わって、明日から冬休みだし。 「佐助、一緒に食べないのか?」 「え、いや。そう言う訳じゃないけど。」 本音は食べたくない。 旦那一人でケーキを食べてそれで仕掛けに気づいてほしかった。 でも、大将もお手伝いさんもいない家で、一人で過ごせというのは酷だろう。 ただでさえみんなでワイワイやるのが好きな人なんだから。 心配そうに眉を下げた表情に、なんとなく俺が悪い事をしている気になってくる。 「まだ具合が悪いのか?」 「そう言う訳じゃないよ。……旦那夕食は?」 そろり、と様子を窺うように尋ねる。 時計の短針は既に10を過ぎていた、下校時刻が4時半頃だったからもう5時間以上経っている。 俺の質問に、旦那はあからさまに目を泳がせて、申し訳なさそう俯いた。 その態度でわかった。 思わず安堵の息が漏れる。 「ああ、いいよ。怒っている訳じゃないんだ。」 「……すまぬ佐助。御館様もさきほど急な呼び出しがあって、取っていた出前を温め直して食べて行かれたのだ。」 「良いんだって。待ってられる方が嫌だ。」 萎れる旦那の手の甲に自分の手を重ねて、俺は強い口調で言った。 育ち盛りで体育部の旦那に、10時過ぎまで晩ご飯を待て、なんてそんなことは言わない。 むしろ、この状況は俺にとってもありがたかった。 「ほんとだよ?俺はそんなにお腹は空いてないから、ご飯はいいや。」 「佐助……。」 心底困った、という風に旦那の顔にはでかでかと書かれている。 一家団欒という雰囲気の好きな旦那らしいと言えばらしい、と頭の片隅と考えて、俺は「ねぇ、旦那。」と呼びかける。 「下からケーキ、持ってきてくれない?」 「え。」 「チョコのは明日食べよう?チーズの、切り目は入れてあるから一切れ持ってきてほしいんだ。」 できるだけ平静を装って頼む。 旦那は首を傾げながら、「わかった。」と階下へ降りていった。 さて、旦那はどれを選ぶだろう。 そう考えると、ドッキンドキンと胸が高鳴って、顔に熱が集まる気がする。 旦那があれを選んだら、もう後戻りはしないんだって決めている。 確率は8分の1……、どうなるか。 がたん、と音がして、再び旦那が俺の部屋に入ってきた。 手に持っている盆の上には、紺色の皿と同じデザインのカップ、銀フォークが乗っていて、皿上にはちょこんと白いケーキが見える。 お盆を低いテーブルに置いて、旦那自身は俺のベッドの前へ椅子を持ってきて座った。 「ありがとう。」 「いや。これで良いのか?」 「うん。」 どうしても口数が少なくなってしまう俺を、旦那は不安にそうに見つめている。 まだ気分が悪いと思っているようだ。 「本当に大丈夫だよ。さ、旦那これ食べてみて。」 「佐助が食べるのではないのか?」 「まずは旦那が食べてよ。毒味だと思って。」 俺がそう言うと旦那は目を丸くして、「佐助の料理はなんでも美味しいぞ?」と言う。 ずっと昔から変わらない言葉に「ありがとう。」と返して、俺はフォークを旦那に持たせた。 釈然としなさそうだったけど、旦那は大人しく白いケーキを半分に切る。 分けられたケーキの中には、黒い球体が見え隠れしていた。 ああ、と心中で笑う。 「本当に毒でも入っていそうだな。」 フォークで刺した生地を顔の高さまで持ち上げて、旦那はにいっと笑った。 彼は皿に残った方のケーキの異変に気づいていない。 「そうかもしれないよ?」 動揺を押し隠して、こっちもにいっと笑うと、旦那はさらに笑って「そんな事はない。」と言い切り、ケーキを口に含んだ。 じわり、と喉や耳の裏に汗をかいているような気がする。 こくり、と飲み込んだ旦那は、笑顔で「ほらみろ、美味いぞ。」と俺にフォークをさしだした。 「ん。」 頷いてフォークを受け取った手は僅かに震えていた。 8分の1の確率。 甘く見ていたわけでもないし、むしろ引き当てればいいと思っていたのに、現実になると途端に尻込みしてしまう。 このまま、残りのケーキを飲み込んで腹に収めてしまえば旦那にばれることはない。 「佐助?」 「どうした?」と優しく訊いてくる旦那に目を向けると、驚いた顔をした後、眉を寄せた。 腕を捕まれ、そのまま引き寄せられる。 「やはり、まだしんどいか?」 すぐ上から降ってくる低い声にぴくりと反応しそうになって、力づくで押し込める。 俺はいったいどんな顔をしていたんだろう。 どちらにしても、これじゃあ大丈夫と言っても信じてもらえないなぁ。 「旦那。そのもう半分……。」 「ケーキの事か?」 「中に黒いものが入ってるでしょ。それチョコだから割って中を見てみて。」 「さすけ?」 訳が分からないと言ったように旦那は俺を覗き込む。 俺はせっぱ詰まってなんと言ったら分からないまま、旦那を見上げるしかない。 元々静かだった部屋に、完全な沈黙が降りる。 「分かった。」 旦那はそれ以上は訊かずに、レアチーズの中から黒いチョコ球体を穿り出した。 そしてそれをバコッと手で壊す。 旦那の手のひらに転がったのは、小さなクッキーだ。 まん丸と細い弓のような黄色いクッキー、月の形をしている。 「これは?」 「俺が見る夢に出てくる月の形のクッキーだよ。」 「夢?」 そう言い、首を傾げる旦那に弱く笑いかけ、閉められたカーテンごしに空を見る。 一番照明を暗くしているとはいえ、さすがに外の月は見えない。 「夢見が悪かったのか、」 「ま、そんな感じかねー。」 眉を寄せる旦那にそう言うと、満月型のクッキーを掴むと口の中に放り込んだ。 「あ。」と旦那が驚いたように口を開ける。 その中へも、三日月クッキーを放り込んでやった。 「ん、さすけ?」 突然の事に目を白黒させながらも口の中のものをもぐもぐ噛みながら、旦那はさらに首を曲げる。 その仕草にまたほわりと胸が暖かくなる。 そして、そろそろここらあたりが潮時だと感じた。 「好きだよ。」 「…………」 旦那はきょとんと目を瞬かせている。 言われた言葉が飲み込めていないみたいで、その表情に分かっていたけどやっぱり苦しくなる。 旦那はむしろ、俺が眉を寄せた事に反応した。 「佐助っ、」 旦那はおろおろと俺の肩に触れる。 予想してた行動は一緒だけど、その原因があまりにも違って、だんだん腹が立ってきた。 「す・き・だよっ、旦那!」 「…っ!!!」 怒鳴るように言ったことで、ようやく旦那はこの状況を理解したらしい。 茹で蛸のように首まで真っ赤にした旦那は、俺の空に手を置きながら下を向いてしまった。 「あ、やぅ……その、」 俺を視界に入れないようにしながら、でも離れずに旦那はしどろもどろになっている。 あーー。 なんかこれはこれで傷つくかも。 そんな事を思いながら、離れようとしない旦那をどうしたもんか、と思う。 「さ、すけ。ど、そ……おれ、」 すぐ答えが返ってくるなんざ端から思ってなかった。 が、しかし。 8割方振られると分かっている人間に肩を掴まれてこんなに近距離ってのは、何とも微妙だ。 ていうか、旦那どもり過ぎ。 「旦那っ!」 「すっ、すまぬ佐助ぇ!!!」 怒り顔で旦那を覗き込むと意外なほど早く返事が来た。 ……ちくしょう、旦那のくせにさらりと俺を振ったな。 「あ、や!違うっ。」 今更気づいても遅い! 「いやいやいや、すっぱりさっぱり振ってくれてどうも。」 にーっこりと旦那に満面の笑みを向ける。 振られるのなら、早くても遅くても大した違いはない。 そう自分に言い聞かせて、残ったチーズケーキをブスッとフォークでさし、そのまま口へ放り込んだ。 ああ、悔しい。 悔しいほど美味くできていて、マジで泣きそうだ。 いつの間に顔を上げたのか、旦那が食い入るように俺を見ていた。 「だんなぁ?」 口を動かし、ケーキを飲み下しながら声をかける。 ――――と。 「んん?」 いきなり旦那が度アップになった。 こんなに間近で顔を見たのは、小学校の時以来かもしれない。 そんなどうでも良い事を考えながら、3センチも離れていない旦那の茶色い瞳を見つめる。 俺の視線に旦那は困ったように眉をへの字にして、俺から離れた。 その時、ようやく俺は唇から熱が離れた事に気づいた。 「はあ、」 「佐助。」 酷い、と目で訴える旦那にどういえばいいのか分からない。 ……気づかなかった。 てか、ひとのファーストキス奪っておいてコメント無し!? 「ちょ、旦那!どういう事っ…。」 「俺も佐助を好いておる。お前が聞こうせぬからだ。」 逆切れのように荒い息で言い切って、旦那はそっぽを向いてしまう。 顔は紅色に染まっていて、迫力は全くない。 すき。 ……好き? 旦那の言葉をしっかり整理するために、頭がぐるぐるとフル回転する。 旦那の事言えないなぁーと思いながら導かれた答えに、俺自身かなりおののいて呆然とする。 「マジで?」 「当たり前だ!!」 疑って聞いた俺に、旦那は憤慨したように大声で言い返してくる。 「おれは、俺は!巫山戯て女性に手を出したりせぬ!!それが佐助ならなおさらだっ!」 ふーっ、と鼻息荒く言い切った旦那は、一転して縋るように俺を見る。 その目はまるで捨てられた子犬だ。 ……や、捨てられそうな子犬、のほうが合ってるかな。 「だから、その。違うのだ。さっきのは条件反射というか。いつも俺は佐助に怒られているから、」 あー、と天井を仰ぐ。 つまり俺が毎日毎日あんたにお小言を言っているから、俺が怒った声を出したらとりあえず謝っとけって。そういう脳になってるってこと? それはそれで、なんか腹立つなぁ。 「すまぬ。俺は佐助が大好きだ。」 さらっとほしい台詞をくれた旦那に、俺は目を見張る。 この、男女が手を繋いだだけで破廉恥破廉恥とうるさい男が、二度も告白した!? 天変地異の前触れかもしんないっ! 驚愕していると、旦那がぶすぅっとふて腐れたように俺を見る。 「……なに?」 「今、失礼な事を考えただろう。」 「ははは、」 マジで今日の旦那は鋭いなー。 ここは笑って誤魔化そう。 「佐助。」 首を傾けて、旦那は俺をじぃーっと覗き込む。 何を待っているのか、はなんとなくわかる。 だが、それを実行するのは死ぬほど恥ずかしい。 旦那はうるうるとした目で俺に訴えかけてくる。 ぐわっ! そんな顔されて、俺が放っておけるわけないじゃないのさ! 「わかりましたよっ。」 俺は固く目を瞑って、勢いよく旦那の唇めがけて顔をつきだした。 実際に触れたのは本当に一瞬で、俺は素早く身を引いた。 「!?」 その時、旦那の腕が背中に回ってしっかりとその場に縫い止められる。 慌てて束縛から逃れようと藻掻くけど、腰と首に回った旦那の太い腕は振りほどけない。 「…んぁ。」 そのまま旦那は何度も角度を変えながら、唇やその周囲にキスを振らせる。 それ以上はしない。 それが知識がないからか、恋愛事に疎い旦那の理性での行動なのか、俺への執行猶予なのかはわからなかった。 ちゅ、ちゅ、としーんとする部屋にやたら水音が響く。 耳を塞ぎたくても、腕ごと旦那抱き込まれていて動かせない。 息をしようにも、なんとなく旦那に鼻息を聞かせたくなくてできない。 そろそろ苦しくなってきた頃、絶妙の頃合いで旦那は俺から顔を離し、拘束を解いた。 「はぁ……、」 肩の力を抜いて、深く息を吐いた。 何となく旦那の顔を見れなくて、彼の肩の辺りを凝視する。 「さすけ。」 旦那は俺を呼びながら、俺の額に口づける。 「好きだ。……本当だぞ?俺はずっと佐助が好きだった。」 「……うん。」 小さく、本当に小声で俺が答えると、途端にきつく抱きしめられる。 「だいすきだ、」と耳元で囁かれるのは、顔面から火が出るんじゃないかってほど恥ずかしい。 火照って顔は真っ赤だろう。 それを見られたくなくて、俺は旦那の固い胸に顔を埋めた。 旦那が小さく、喉を鳴らすのが脳の奥に木霊した。 |