雲より自由なひとを追いかけた… ――どんどん遠くなる背中を待つひとは もういない 駆って、回して、その果てで。 「千昭」 目を細めて見る景色は、かつて一時だけ同級生だった人の自転車に乗って走った時の面影をほとんど残していない。 それほどまでに時間は過ぎてしまった。 今この場所を通る人は、この川で遊ぶ子どもがいたとは考えないだろう。 もう誰も、ここがコンクリートで覆い尽くされる以前の昔へ、思いを馳せることはないのだろう。 ――私以外の誰も。 「ちあき」 口に出すのは本当に何十年ぶり、というくらいに時間が経った。 あの日。 あの橙色の西空に背を向けて、二人で、自転車に乗って。 思えば、彼と二人乗りしたのはあれ一回切りだった。 今は、自転車はない。 鞄も、制服も、どこまでも飛んでゆく球を追いかけた足も、何も考えず笑っていた心も。 彼の顔すら朧気になった。 今は声だけが残っている。 今になって思い出すのは、どうしてか表情でも行動でもない。 私に笑って怒って不平を言って愚痴を言って、私を揶揄って私が揶揄った夏の声だけが耳にこべりついている。 ちりん、 風鈴だと思ったそれは、滅多に通らない自転車の呼び鈴だった。 右横をすり抜ける、少し錆びいった自転車がコンクリートの壁に消えてゆく。 背中を見送った後、もう一度川だった場所を見下ろす。 河岸整備が完了してもう40年以上、年々水が減り続け、梅雨の時期しか水の流れない窪地になってしまった。 「千昭が見たら、……どう言うかなぁ」 怒るだろうか、それとも苦笑するのか。 もう二度と、会うことのない相手に問いかける。 彼の事を考える時、私はいつも口調が若返る。 ねぇ、千昭。 空に問いかける。 彼の産み落とされた世界で、すでに空は色を失って久しかったと知っている。 それでも無機質な現実を知らない私は、蒼く赤く濃紺で、時々暗く紫な空はどこまでも続いているのだと、 信じ続けて言葉を送る。 この川から透き通った青色とせせらぎが消えたように、 いつか、薄黄色に染まるこの空からも色は削ぎ取られるのだろうか。 私が彼の表情やバッティングフォームや、過ごした時間をどこかに置き忘れてきてしまったように。 ――それでも。 千昭、それでもね。 ……憶えてるよ千昭の声。 千昭がくれた最後の言葉は、ちゃんと生きてる。 まさにそれが最後の砦だ。 千昭にとっての、あの絵のようなものかもしれない。 「日が暮れる……」 夜が、来る。 明けない夜はない、よく言われる誰もが知ってる自然の摂理だ。 じゃあ…と考える。 夜が無くなってしまったら、どうなんだろう。 昼もなく夜もなく、流れるものがないなら止まるものもない世界になったなら。 そんな時代が、来たのなら。 急速に光を失い、空はいよいよ暗くなり出した。 東の夜が西を食らいつくしている。 「結局、千昭には届かなかったなー」 最初から、分かっていたはずだった。 千昭の話は当時の私にとって理解できない空想事で、いくらエネルギー資源枯渇だ温暖化だと騒がれていても、 実際に地球破壊が進んでても。 数十年単位の未来で、タイムリープなんて技術発明できるわけがない。 「わかってたよ」 でも、信じたかったんだよ。 会えるんじゃないかって。 走り続ければ届くんじゃないかって。 そう思い込むことで、どうにか涙を堪えた。 甘さを否定する大人の自分を、その時だけは必死に押し込めて。 千昭への想いを捨てることも抱き続けることも選べなくて、そのまま、こんなところまで来てしまった。 手を見る。 しわくちゃの節くれだった手の平、染みが所々肌を覆う手の甲を見つめて、思わず笑いがこみ上げた。 吹っ切ることも抱え続けることもできなかった。 けれど肉体は心の葛藤などお構いなく、ずんずん迷い無く時を進む。 今生で相見えることができないなら、せめて―― なんて、柄じゃない。 彼に、会える日は来ないだろう。 私は神様を信じてないし、千昭は非科学的なことは絶対胡散臭がって相手にしない。 そんな人間がこんな時だけ運命を持ち出すなんて、信じてる人に失礼だ。 「ごめんね」 もう待てなくなったんだ。 ごめん、千昭、……ほんとごめん。 それを伝えたかった。 川が無くても自転車が無くても、あのころと全てが違ってしまっていても。 大事な、伝える相手さえいない。 それでも、この場所にこだわりたかった。 あの日、照れて恥ずかしくてしかたなくて、無かった事にしてしまった千昭の言葉を聞いた、 この場所でお別れを言いたかった。 自分の未練にけりをつけるため。 穏やかに、浄土とか天界とかないって思ってるけど、 一足先にそっちら辺へ旅だった親友達を追ってゆく時、千昭の声は重すぎる。 だから。 置いていきます、ごめんなさい。 「千昭だって、あたしが成仏できなくて、ジバクレイになってるのって嫌でしょ」 だから、ごめん。 甲斐性のない友達だったってことで諦めてよ。 自分への言い訳を喋る。 言い連ねるのは、後ろめたさよりここに一時でも長く留まろうとする自分への叱咤からだ。 つくづく未練がましいと思う。 「じゃね、……ばいばい、」 最後に彼の名を呼ぼうとした。 足が滑る。 凹凸のほとんどない薄灰色のコンクリートが視界いっぱいに広がる。 音は聞こえない、視界がぶれて頭が揺れた。 何もできない。 手も足も移動中反応しなかった、かつて走る電車に突っ込んだ瞬間のようなスローモーションで世界は回っていた。 何が起きたのか分からなかった。 目の端ぎりぎりに映っていたはずの川底の窪地が、転がる私を招き入れる。 「――――っ!」 一瞬前に叫んだだけの言葉に応えがあったのは気のせいだったのか。 視界に映った赤は、太陽の色か空の色か。 それとも、私から滲み出た液体か。 「ち、あき……ぁ」 笑っていた。 今にも泣きそうな、泣いているような顔で、笑っている。 頬に光るものは汗だろうか。 千昭が、川岸にいた。 こちらを、川底にいる私を上から覗き込むように上半身を折り曲げている。 あの夏と違う、けれど何一つ変わらぬ、ちょっと髪の伸びた千昭がそこに存在した。 「 」 何か呟く声が聞こえる。 記憶より少しだけ低くて濁った、男の人のような声が降ってくる。 千昭は笑い続ける。 だから、私も笑い返した。 昔と同じように、脳天気にからりと、昔大好きだった今も大好きな同級生に笑顔を向ける。 笑って、そして―― ま、ことっ まこと真琴真琴……っ!! 呼ばれた名前に頷くように、目を閉じる。 黄色くて赤い、千昭はくしゃりと顔を歪めていた。 ――背を追いかけてくれた友の命日が今日だった やっと 走り続けた先の人は振り返ってくれたらしい…… |