*






  白い肌



「ふぅ、」

(疲れた、)

今日は本当に疲れた、これほどまで体力を消耗したのは高校の体育祭の時以来だ。
いつもなら少々しんどかろうが階段を使うのだが、そんな気力すら残っていない。
今はとにかく何処でも良いから眠りたい。
連日の徹夜に今日の不運が重なって、身体は鉛でも引っかけているかのようだ。
これは本当に自分の肉体だろうか。
無駄に重い足を前に押し出しているのは間違いなく私なのだけれど。 なんだか糸で引き上げられているかのような違和感、 疲労困憊しているはずなのにすいすいと前に進んでゆく。

(やっと着いたか、)

ロビーから此処までの道のりが恐ろしく長かった。
否、実際には30秒とかかってはいない。


それにしても、――――― 。

「眩しいな、」

言って、思わず苦笑してしまった。

(夕焼けと朝焼けの区別も付かなくなったのか、私は。)

そう言えばここ数日、碌に外出していなかった気がする。
その事実が余計に心まで重くした。
考えたくなかった、否、出来る限り考えないようにしていた問題を喉元に突きつけられた気分だ。

はっきり言って、もう二度とこんな仕事は御免だ。
最愛の彼ならともかくとして、 面識も資料も何もない筋肉隆々のむさ苦しい男達と一夜どころか何日も一緒に過ごすなんて。
何故、あの時の私は引き受けようなどと思ったのか、理由は全く不明で。


(それにしても、本当に赤いな。)

深紅、・ ・ ・ ・ ・ 臙脂の方があっているだろうか。
どちらにしても酷く深くて暗い赤だった。夕焼け、であるはずなのに。
これほど淀んでいる天と、昼間の空が同一などと。

(違う、・ ・ ・ ・ ・ 真に穢れているのは私、か?)

そうかもしれない、この黄昏も見る人が見ればさぞ美しく感じるのだろう。
少なくとも、彼なら。
そんな事を考える自分にこそ嫌悪を覚える。
自らが決めて歩んできた道で、これからも一生進み続けるのだと誓ったはずなのに。
職業柄ある程度は仕方のない事だと、割り切ってもいた。
愛しい彼に多少不快な思いをさせるかも知れないけれど、それでもと。望んだのは私自身のはず。

この身に溜め、染み込んだ物が、生まれつきだとは思いたくない。
藍家に生を享けた事も兄達から離れてこの職に就いた事も、何一つ後悔などした事はない。
それでも愚かな私を見捨てずにおいてくれるあの人達には、 言葉にした事は少ないけれど、とても感謝している。

(あぁ〜〜、やっぱり疲れているな、)

でないと説明がつかない。
あのお騒がせ、とことんまで弟達で(『達』と言ってもほぼ私だけだが) 遊ぶ事を至上の悦びとしている鬼畜三人に、どんなに疲れているとはいえ感謝してる、などとは。
今の私はきっと正気じゃないのだろう。

(早く、家に入ろう。)

そして早く寝てしまおう、こんな馬鹿げた思考は一刻も早く捨ててしまわなくては。
あり得ないだろうが、あの兄達なら人の心さえも読んでしまえる気がする。






   幽かに水面に忍び寄るのは 、 緋色の経帷子



まず最初に目に付いたのは、テーブルの上に無造作を装って置かれたいくつかの料理だった。
そこで初めて来訪者が居る事に気づいた。
途端、僅かに綻ぶ頬に続いて苦笑が漏れる。

「絳攸?」

朧な記憶を手繰り寄せると、 玄関には確かに他人物の靴があって廊下にも少し小さめのワイシャツが掛けられていた、ような気がする。
と、リビングにとても懐かしい気配を感じた。

「こーゆー、」

起こさないように静かに、けれど喜色を隠しきれなかった声と共に。
ソファー越しに向こう側に横たわっている彼を覗き込もうとして、



血の気が引いた。


後一歩が、踏み出せない。
なんの事はない。 彼の顔を見て、床で眠り込んでしまっている身体を抱いてソファーに寝かしてやれば。 その横で私も久々の安眠を貪ればいい。



なのに、

どうして此処から動けないのだろう。
嫌だ、と全身から汗が噴き出す。ドクン、ドクン、と心臓が波打っている。
気味の悪い汗が握りしめた手のひらの中に溜まってゆく、拭いたいのに腕を持ち上げる事も出来なくて。

ソファーの端から足だけが覗く絳攸は、美しかった。
そこだけ、現実から切り離されて輝く金の額縁に入れられた一枚の絵画のように、幻想的で。
赤々と西日に照らされるフローリングは、緋色の淡水のようだった。
彼は一人、その中に浮かんでいる。
薄く透きとおる白い肌を朱色に塗り替えた絳攸は、周囲に紅を従えて悠々と横たわっていた。


身の毛立つ、とはまさにこの事で。
相変わらず穏やかな寝息は聞こえてくるし、
“それ”、はあくまで陽の光だという事も十分に理解している。
けれど。頭は否定するのに、心がそれを打ち消してしまう。

寝返りを打ってくれたら、
もしピクリとほんの少しでも動いてくれたなら、安心して彼の元へ行けるのに。

何でも良い。
誰でもいいから、私の頭を殴って一言、「そんな事あるわけない」と言ってくれさえすれば。



  これは、――――――――― 心臓に悪すぎる











「ゅえい、・ ・ 楸瑛、」

「う、」

蛍光灯の光が目に痛い。
じわりと縁に溜まった涙を荒く擦る指を止めようとして、いきなり激しい力で揺すられた。

「楸瑛っ!!」

「 ・ ・ ・ こう、ゆう?」

細めた目にぼんやりと映った人影は、酷く見慣れた人のもので。
未だぼやける輪郭に半ば反射的に手を伸ばせば、意外にも強い力で握り返された。
「えっ?」と思って、まだ慣れない明るさに目を凝らすと、ちょうど私の真上に彼が居て。
抱きつかれたのだと認識するのに、不覚にも数秒を要してしまった。

「えっと、絳攸?」

どうしたの、何かあった?

問い掛けるはずだった声は、何故か呟くようにしか聞こえず。
けれど、瞬間バッと跳ね起き怒鳴ってきた彼の表情にそんな疑問も雲散してしまった。

「何考えてるんだっ、お前は!?」

「こう、」

「っ ・ ・ ・ 俺が、・ ・ どんだけ心配したと思ってるっ!!」

掴まれた肩は彼の爪が食い込んでチクリと痛くて、 背中から感じる床の感触は、孟冬にしては気温が低いせいで冷たく、接触面から熱を奪ってゆく。

「今日、帰るって聞いて、・ ・ ・ 玄関を開け、たら。お前が倒れてて ・ ・ ・ ・ 俺がっ、」

言葉の合間に絶えず落ちてくる温かい滴に、ようやく状況を把握できた。

「ごめんね、」

「違うっ! ・ ・ ・ ・ お前、魘されてて。熱が、あっ、て ・ ・ ・ 」

「うん、・ ・ ・ 」

少し熱くて、凍ったように冷たい腕を彼の背中に回す。
ゆっくりとあやすように叩くと、嫌々と首を振られたが構わず彼を繋ぎ止めた。

「絳攸、」

耳元で囁けば、びくりと彼の動きが止まった。
そのまま静かにしゃくり上げる絳攸の頭を抱えるように肩口に押しつけると、 観念したのか弱くワイシャツの裾を掴んだ。
その仕草がいつも以上に可愛くて。淡く笑むと同時に吐きだした息は、常よりも遥かに重くて熱く乾いていた。 しまった、と思った時には既に遅く。

「きっ貴様、熱があるんだ!早く、ベッドで寝転がってろっ!」

猛烈な勢いで腕から抜け出したかと思うと、私の腕を引っ張る彼に先ほどまでの震えはなく。
大人しくされるがままに、押し込まれるようにベッドに入ると絳攸はすぐさま戻っていってしまった。

(情けないな、)

部屋に入った途端寝入ってしまうとは。
玄関とは、よく倒れて平気だったものだ。何事もなく、とは行かなかったようだけれど。

(絳攸にまで心配をかけてしまうなんて。)

彼に素直に案じてもらうのは正直嬉しいけれど、悲しませたくはない。
苦い物を押し出すように息を吐く。
肋骨の軋むような疼くような気持ち悪さに、さすがにまずいかなと思う。
けれどもう一度寝る気にもなれない、絳攸は無理にでも眠らせようとするだろうけれど。


今は目を瞑りたくない。再びあの“紅”に囚われてしまいそうな気がして。

(悪夢が怖いなんて、いつ以来だろうねぇ。)

弟の夢見が悪かったのは知っている、 彼が眠れないと言って私の部屋に来ていたのは何歳までだっただろうか。
思い出そうとして纏まらない考えに頭を振った。
途端感じた鈍痛に、意識がはっきりしていない時の考え事ほど不毛な物はないと、 改めて認識させられた。

(あれは、疲労のせいか?それとも、・ ・ ・ ・ )

分かり切った答え、それでも思わずにはいられない。
いつか、本当にいつか、あの切ないほど美しい光景が現実に現れる可能性も、
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ないとは言い切れない。

またその逆も、もしかしたら。

(君は、どうするんだろうね。)

思い浮かべて、けれどさきほどの悪夢より現実的な思考は、酷く空虚なもので。
それはあり得ない、と断言できる自分がどこかに存在して。


「楸瑛、・ ・ ・ 起きてるか?」

遠慮がちにかけられた愛しい彼の声に、血腥い妄想をうち消した。




 ― もし、私が死んでも ―

 ― どうか君だけは笑って、何も知らないで ―


‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
楸瑛、なんの仕事してるんでしょうね?
完全思いつきの産物。。。
夕焼けって良いなぁ、と思ってた時にふと頭に浮かんでカチカチとやりました。
朝日より夕日の方が好きな人間です。
夕方の方がのんびり出来るってのが理由ですが、・・・・;
うちのサイトってなにげに夕焼けテーマが多いよね。(今更)

date:2007/02/15   by 蔡岐

【宿花 , "白い肌" …「何でもありな100のお題」より 】