鐘が鳴っていた。 黒々とした空を見つめる。 数時間後の未来を思い、私は静かにカーテンを閉めた。 僕と君と、明日と。いつか笑ってお別れを言える日まで共に。 今日をという日をどれほど待ち望んだ事か。 晴れ渡る寒空の下を、自転車だと置き場所に困るので徒歩で人並みの中を進む。 楽しみで昨日も少し夜更かししてしまったのは、間違っても新年だからとか、藍一族が揃うからではない。 今日は一月一日。 除夜の鐘を聞いてから、およそ9時間が経過している。 今から残り数十分で、はれて恋人という位置に迎えられた人に会えるからだ。 顔を思い浮かべると、知らず足取りは速くなる。 それに気づいて苦笑して、それでもさらに速度を速めた。 周りには、家族、友人、恋人と手を繋ぎ笑い会う人々がゆっくり歩いていて、それを追い越しながらようやく見えてきた葉っぱの茂みに、私はさらに逸る。 巨大な鳥居をその他大勢と一緒にくぐって、見えてきた厳かな漆黒の瓦に目を細める。 待ち合わせには後少し時間があるけれど、きっと彼はもう着いているだろう。 「しゅうえい!!」 ああ、やっぱりそうだ。 おそらくかなり早くからそこで待っていただろう絳攸の寒さに強ばった顔を見て、微笑んだ。 私はすばやく彼が立っている雑木林の端に駆け寄った。 「……早いね、絳攸。」 「っ!別にっ!!」 他意はなかったが、どうやら彼は揶揄いだと判断したらしい。 食ってかかってくる絳攸に、私は思わず頬が緩む。 絳攸はさらに頬をふくらませた。 「貴様っ……!!」 目を三角にして肩を怒らせる絳攸に近づく。 「うっ、」と後ずさろうとする彼を、腕を掴んで引き留めて顔を覗き込む。 にっこりとわざと笑うと、一瞬でぶわぁっと顔を赤くする絳攸に、本当に自然と笑みがこぼれた。 「あけましておめでとう。絳攸、今年もよろしくお願いします。」 口角を上げながら、そう言ってしっかりと頭を下げると、後頭部にあからさまな視線を感じる。 気にせず顔を上げ、絳攸を見下ろす。 そのまま無言で反応を待つ。 「は?…あ、ああ。おう、よろしく。」 途端にしどろもどろにぺこっと頭を下げる絳攸に、今以上に距離を詰めそうになる脚を、なんとか止める。 頬を染めて私を仰ぎ見る絳攸はもう悩殺的に可愛すぎた。 やばい、本気で抱きしめて押し倒したい。 理性は駄目だと分かっていても(何せ衆人の直中だ。)、感情は腕や脚を動かそう動かそうとしている。 それをどうにか押し込めて、目の前に手を出した。 「な、なんだっ?」 「ん、初詣だろう?人が多いからね、はぐれてしまったら大変だ。」 当たり障りのない理由を述べて、さらに手を差し出す。 絳攸はさらに首まで仄かに赤くしながら、俺を睨んでくる。 うーん、さすがに簡単には騙されてくれないか。 否。 騙すつもりはないのだけれど、本当の事を話すと余計に恥ずかしがって、向こう3ヶ月となりを歩いてくれない気がする。 「さ、早く。」 「う、分かった。」 手を握るくらいで、一見すると泣きそうなほどに顔を歪めて一大決心をする絳攸に苦笑が漏れる。 一週間前にこんな事なんて比べものにならないほど濃い事をしたっていうのに。 本当に、潔癖性かと疑うくらいシャイだ。 ――――それでも、彼が選んだのは私だ。 「うん。行こう。」 「……ああ、」 しっかりと手を握りしめてにこりと微笑めば、彼もぎこちなくだが頬を弛めてくれる。 これ以上幸せな事があるだろうか。 「ないだろうな。」と、心中で小さく零す。 これまでの人生で幸福だと感じられた事は色々あるけれど、上位はほとんどと言っていいほど絳攸に関係している。 その事を絳攸は知らない。 別に知らなくてもいい。むしろ多少なりとも恥ずかしい話だから知らない方が良い、とも思う。 「あ、見ろ楸瑛。」 それでも彼が隣にいるだけで満たされている私は、本当にどうしようもない浮かれ男だ。 絳攸によく常春と言われるが、今まさにそんな状態で。 わかっていて、「それもいいか。」と思ってしまう私は、もう更生不可能だろう。 もちろん、しようとも思わないけれど。 「あれ、クラスの連中じゃないか?」 「え、どれだい?」 「あそこで拝んでるやつだ。…見間違いか?」 絳攸が指さす場所を見てみると、確かに境内の巨木に巡らされている縄の前で熱心に手を合わせている人間がいた。 そして、たぶん絳攸の言うとおり、あれは私達のクラスメイトだ。 けれど……。 「さぁ?ちょっと人が多くて分からないよ。それより絳攸、そろそろ順番が来るよ。」 「ん?そうか。」 あっさりと話題を変え、お参りの順番が進んでいる事を告げ、手で示す。 絳攸は至って素直に諦め、前へ詰める。 さりげなくクラスメイトの姿を体で隠し、見上げてきた絳攸ににっこりと笑いかける。 出会い頭より柔らかく微笑み返してくれる彼に、「そう言えば、君は昨日は何をしていたんだい?」と尋ねる。 「大晦日かぁ。」 どうだったかな、と考え込む絳攸を穏やかな気持ちで眺めながら、ちらりと、既に巨木前から立ち去った級友を探す。 すぐに見つかった彼は、もう神社の入り口にいて帰るところだった。 その後ろ姿に少し安堵して、ぽつりぽつりと昨日の行動を話す絳攸を振り返る。 この一時は誰にも邪魔されたくはない。 今なら、現れたのがたとえ会長であっても邪険に追い払うかもしれない。 そしたらきっと、あの素朴で純粋な会長は酷く傷つくだろうけれど。……それでも結局は、理由を承知して引き下がってくれるはずだ。 「楸瑛?」 「え。なんだい絳攸。」 「あ、いや。お前上の空だから、……何か、あったのか?」 そろり、と上目遣いに訊いてくる絳攸を本当に手加減なく抱きしめたくなる。 心底努力して自重する。 代わりに、眉尻を下げて絳攸と繋いでいる手を持ち上げた。 「いや?何もないよ。」 「でもっ。」 眉を寄せて声を荒げる絳攸にどうしたものか、と考える。 上の空、という指摘はある意味的を得ている。 ただ、考えていたのは絳攸に関する事だけれど。 胸の高さまで持ち上げた手に、私はゆっくりと口を寄せる。 誰が見ていようがもう関係がない。せっかく誰に(ここで言う人間は、8割方彼の養い親のことだが。)憚ることなく、愛しい人を独占できる立ち位置を手に入れたのだ。 「君と居るのに、他の事なんて考えない。」 「っ!!」 これ以上ないほど目を見開いて顔を熱くする絳攸に苦笑して、唇を離し手を引いて歩き出す。 後ろで絳攸が何か叫んでいるが振り返らず、数巡後に迫った参拝を待つ。 「楸瑛っ!!!」 悲鳴のような声に軽く笑って、私は軽口を返す。 「絳攸、目立つよ。」 「だったら自重しろっ!!」 「酷いな。これでも、君がこういう事で注目を浴びるのを嫌うと思って一瞬だったのに。」 「貴様ぁーー!お前の頭は既に花満開か!?」 いまさら気づいたのか。 その事に少し呆れ、ちょっとした怒りでぴくりと眉を上げる。 残念ながら絳攸は私の異変に気づかなかった。 ああ、本当にもどかしい。 私の胸には何年も前から、それこそ中学へ進学して一緒のクラスになって以来、絳攸の事が張り付いて離れないのに。 「――ああ、そうだよ。何せ側に君が居るのだから。」 あっさり肯定すると、途端に後ろが静かになった。 ふふ、と心中で笑う。 「ああ、順番が来たよ。」 私の声に答えず、絳攸はただついてくる。 後ろを振り返らなくても彼の表情はそれこそ手に取るように分かって、ますます愉快だ。 賽銭を投げてパンパンッと手を叩く。 カランッカランッと、大きな鈴の音を鳴らした絳攸も同じように手を合わせ、静かに祈っていた。 数秒じっとした後、後ろに急かされるように離れる。 少し歩いてから、横道に逸れた。 「はぁ、」 「疲れたかい?」 「……ああ、少しな。」 肩を回す絳攸を見つめて、気になった事を訊いてみる。 「熱心に何を祈っていたんだい?」 「……貴様こそ、」 睨み付けてくる絳攸に少し目を見張って、ああ、と理解した。 にこりと微笑めば、ふいっと視線を逸らされる。 「内緒、だよ。叶わなくなっては嫌だからね。それに……、」 「それに?」 言葉尻を掴んで、絳攸は不機嫌な顔と口調で尋ねてくる。 強気な口調の影に不安が見え隠れする。 「きっと、君と同じ願いだ。」 口端を上げ、言い切る。 ぴくりと彼の眉が動いて、その後微動だにしなくなる。 彼が口元をぐるぐるに巻いたマフラーで隠したのと、寒風が吹き抜けたのは同時だった。 「絳攸。」 私は先を促す。 さっきの言葉に対する態度で彼の気持ちは大体分かっていたけれど、それでも確固とした断定がほしい。 「莫迦楸瑛。……お前は本当の阿呆だ。」 小さく悪態をつく絳攸の姿は、相変わらず抱き寄せたくなるほど可愛い。 「絳攸……。」ともう一度呼びかける。 答えてくれ、と。 視線で訴える。 「うるさい。」 そう言った後、「……俺も、」と続ける声は限りなく小さいけれど、聞き逃しはしない。 「きっと。同じ願いだと、俺も思う。」 言い切ってくれた絳攸を思わず抱きしめる。 ぼっと火がついたように赤くなって暴れる絳攸を逃がさないよう腕を回して、背後を通る参拝客の目から隠す。 そのままの体勢で「愛している。」と囁いた。 「なっ…!」 「今年もよろしくね、愛しい人。」 「……ああっ!!」 耳元で吐息のように囁いた言葉に、大声で返してくれる恋人を抱きしめて、私は思いきり笑った。 『命尽きるまで、どうか君の側に』 『できるなら、来年もこいつが隣にいることを』 願い事は、晴れて冷たい空に解けていった。 |