*





泡沫の夢が終わらない



その日、絳攸は朝から落ち着きをなくしていた。


「……絳攸、君ね」

「な、なんだっ」

ようやく振り向いたかと思えば必死なあまり般若の形相を向けてきた(それすら可愛いと思うのは私の欲目だろうか) 親友に、楸瑛は微笑ましさを通り越して少し呆れてきた。

「なんだ、じゃないよ。さきほどから何度も呼んでいるのに。つれないね」

「ウルサイッ、俺は今お前の冗談に付き合っていられるほど暇じゃないんだ!」

「そうだねぇ、なにやらずっと辺りを気にしているようだし?」

瞬間、うっと怯んだ親友に楸瑛はわずかに口の端をあげた。

「大丈夫、明日は私と一緒に行くのだから、迷う事はないよ」

「う、うるさいっ。俺は迷ったりしない!」

「……絳攸、」

「なんだ、」

「君の家はこちらの角を右だよ」

「………………」

絳攸は今度こそ二の句が告げられなくなった。
しぶしぶ軌道修正して、本来の下校通路を歩いてゆく。
その間絳攸は微妙なしかめっ面をしながら一言も発せず、楸瑛も心底必死な彼に敢えて話しかける事はしなかった。




「楸瑛、」

絳攸の拗ねたような、けれど真摯な声が、彼を無事門前まで送り届けて自宅へ足を向けかけた楸瑛を呼びとめた。

「何、」

「お前は、……その、どうしようもなく焦ったり不安になったりは、しないのか?」

「……ああ、」

同意とも相槌ともとれる、どちらでもないような微妙な言葉。
思わず眉を寄せかけた絳攸に、楸瑛は軽く笑って見せた。そして。

「そんなに心配?明日のテスト」

悪戯っぽく顔を覗き込む。
その仕草は子どもっぽく、けれど髪と同じ藍色の瞳は、中学生とは思えないほどの分別を持ち大人びていて、 まだ少年を抜けきっていない顔には酷く不釣り合いな気がした。
その瞳に気圧されながら、絳攸は憮然として言った。

「当たり前だ。ただのテストじゃない、受験だぞ」

「うん。そうだね」

けれど相変わらず楸瑛の返事は素っ気なかった。
それがどうした、と言われているような気さえ、するほどに。

「うんって、それだけか?お前も同じ所を受けるんだろう」

絳攸と楸瑛が志望した高校は、ここいらでも有数の進学校。
かなりの難関校なのだが、充実した特待生制度と交通の便、 (嫌みかと言うほど)広大な敷地で、毎年とんでもない倍率になるのだ。
小中高大と一貫していて、 基本エスカレーター制だから外部からの受け入れ枠はそれほど多くなく、余計に熾烈な争いになる。
…………楸瑛は、本当にその事を分かっていっているんだろうか。

「そうだよ」

微笑みながら、ついでとばかりに返された言葉。
それを慎重に吟味しながら、絳攸は訝しげに楸瑛を見遣った。

「納得いかないようだね」

「ああ、そうだ。……だいたいお前、高校には進学しないとか言ってなかったか?」

「うーん、そんな事も言ったかなぁ」

「言ったっ!」

間髪入れずに叫ばれた返事に楸瑛は心中だけで小さく笑った。
高校なんて面倒臭い所にはいかず、藍家傘下の海外企業にでも就職して兄達の元で働こうかな、 などと思っていたのは中学1年生までの話。
その時の事を絳攸がまだ覚えていようとは、楸瑛は考えていなかった。

「日々精進し、勉学に励むのは良い事だろう?」

「うっ、……まあ、そうだが」

「私も、少しは君を見習おうと思ったんだよ」

にこやかに(狸が人を化かすような笑顔で)話を完結させた楸瑛に、 納得いかないながらも絳攸は取り敢えず最初の問いに戻る事にした。

「で?」

「そうだねぇ、……まあ、緊張しないと言ったら嘘になるけれど、そこまで気負う必要はないだろう?」

楸瑛らしい答え、絳攸には真似できそうもないような。
当たり前すぎる返答、しかも逆に問い掛けられて絳攸の表情がにわかに暗くなる。
それに気づいたのか、楸瑛が絳攸の頭に手を置いて励ますようにぽんっと叩く。

「大丈夫だよ、君もなんだかんだ言って本番は強いタイプだろう? 明日になれば、自然と落ち着いているさ」

案の定、物凄いスピードで叩き落とされた右手を軽く擦りながら、楸瑛はそう言って笑った。

「子ども扱いするなっ!さっきだって別にちょっと遠回りしようとして……」

「はいはい、そうだね。 私が勝手に君と一緒に試験校に行って、合格発表も入学式も付いてゆくだけだよね」

「そっ、そうだ!!」

絳攸は真っ赤な顔をしているだろう自分を考えて、さらに顔を染めながら早口で頷いた。
可笑しそうに笑う楸瑛の肩を叩いて、どうにかそれを紛らわす。
羞恥のおかげで、絳攸は楸瑛が「入学発表も」と言った事の意味を推し量る事ができなかった。
楸瑛は目尻に堪った涙をふき取って、さきほどまで乗らずに来た自転車に足をかけた。

「それじゃあ絳攸、また明日ね。筆記用具は忘れても貸してあげられるけれど、 受験票だけは忘れないでね。取りに帰ると間に合わなくなるから」

「だっから、人を子ども扱いするなっ!!」

最後まで聴かずに楸瑛はペダルをこぎ出す。
後方から絳攸がまだわぁーわぁー言っているが、それも無視した。

「青春、とはよく言ったものだね」

言葉の趣は、けっして10代半ばの青年が発する響きではなかったけれど。
その呟きは楸瑛以外、誰にも聞き咎められる事はなかった。



date:2007/02/13   By 蔡岐

【艶毒, "泡沫の夢が終わらない"】