*



良い事が起こる 悪い事が起こる
それらを引き起こすのは 人に与えられた役目……



Tc


「あ、」

学校帰り、絳攸はほどけた靴ひもを結びなおしていた。

「ん?どうしたの絳攸」

「……靴の紐が切れた」

楸瑛は押していた自転車を止め、絳攸の横にかがみ込む。

「どれどれ、……ああ本当だ。初めて見たよ」

その科白に絳攸は眉根を寄せた。

「珍しそうに言うなっ」

「どうして?事実、珍しいと思うけれど」

「……っじゃなくて!だから、…何か、起こるかもしれないだろうがっ」

楸瑛は黙り込んだ。
必然的に、その場に沈黙が落ちる。
夕方の河川敷に人は疎らで、小さな川に太陽の光が反射し、きらきらと橙に輝いていた。

「……君、それを信じてるのかい?」

「なんだ、その間は」

「いや、別になにも」

絶対嘘だ、と絳攸は思った。
楸瑛の頬は小刻みに震えているし、顔はわずかに逸らされている。

「お前、馬鹿に……っ」

「してなどいないよ。俗説を口にした君が珍しかったものでね」

「俺だって別に信じちゃいない!……ただ、ちょっと気になっただけで」

「まあ、ねー」

信じていなくても、あり得ないとわかっていても、
世間で言われている、その事が語り継がれ続けているから。
『凶事が起こるかも知れない』という思いや、不確定な未来への不安を抱くことこそが、
良からぬ事を招き寄せているのではないかと。
堂々巡りだ。
気にしなければ、なんともないはずの事なのに。

楸瑛が言ったように靴ひもが切れる事など絳攸にもなかったことだった。
だから余計だ、とおかしな方向へと回転を続ける思考に区切りを打つ。

「わからない事はないよ、けれど詮無い事だ」

「知ってる」

「うん、わかってるよ」

そう言って、楸瑛はにっこりといつもの笑みを浮かべた。
その表情の中に、楸瑛の本意の一部を嗅ぎとれる自分を、絳攸は少しだけ嬉しく思う。

「さあ、帰ろうか。もう春とはいえ、夜はまだ冷えるからね」

「病知らずのやつが何を言う」

「私は平気でも、君は違うだろう?」

「……貴様に、心配されるなど俺も落ちぶれたものだ」

「ふふふ、大丈夫だよ。寝込んだら、私がつきっきりで看病してあげるから」

「いらんわっ!!」

絳攸は紐を結びなおして、立ち上がる。


「あ、」

「ん?今度は何だい?」

「四つ葉のクローバーだ、……ほらあそこに」

絳攸は、楸瑛の自転車脇30センチほどの所を指さした。

「え?あ、本当だね。珍しい」

「……ああ」

絳攸は微かに笑みを浮かべた。
ちらりと横顔を覗き見た楸瑛は、影の消えた絳攸の表情に笑みを深くする。

「今度は、何を考えているんだい、絳攸?」

「べ、別にっ、ただ珍しいと……」

「確かに。今日は、珍しいもの尽くめだ」

「そういえば、そうだな。偶々だろう」

「それにしても、よく見つけたね」

「いや、顔を上げたら目に入っただけだぞ」

「でも、すごい偶然だ」

此処へきてようやく絳攸にも、楸瑛の言いたい事がわかった。

「……人間万事塞翁が馬、か。大袈裟だろう」

言いながら、絳攸は立ち上がった。

「まあ、そうかもしれないけど。面白くはあるね」

「他人の吉凶をおもしろがるなっ」

絳攸が歩き出すのに会わせて、楸瑛も自転車を押し始めた。

「だいたい、それじゃあ、次、良くない事が起こると云う事だろうが」

「それは、君の心持ち次第だろう」

「他人事だと思いやがって」

「違うよ、絳攸。君なら心配無用ということさ」

信じていないんだろう、という目で笑われて、絳攸はそっぽを向く。
楸瑛の気遣いはときたま、絳攸を気恥ずかしくさせる。

「うう、……帰るぞ!来週までに春課題をやり終えるんだからな!」

すれ違う人達が何ごとかと振り返るほど大きな声で宣言する。
楸瑛は絳攸の動作を、相変わらずな笑みで見ていた。

もうすぐ、桜が咲く。


date:2008/03/29   by 蔡岐

狸華 , "Tc(テクネチウム)"…「短文1」より】