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  鍵はまだあげない


明るい月夜の晩だった。

少なくとも、
そうあるべきで、自分以外のほとんどの者にとって実際にそうあり続けている、 優しい優しい風の晩だった。




楸瑛は何度目になるかわからない溜息をひっそりと漏らした。
いっその事、手振りまでつけて大仰に嘆いてしまいたい衝動に駆られるが、 さすがにそこまでするのはこちらとしても気が引ける。
先ほどから、いつも一言でもおかしな事を言おうものなら何倍にもなって怒鳴り返してくるはずの親友は、 こちらが機嫌を伺ってしまうほど静かで、項垂れじっとしていた。

(少し、・・・言いすぎただろうか、)

別に自分が悪いわけでは全くないのだが、そこまで彼を追いつめるつもりもなかった。
ただ何度言っても聞いてくれず頑張りすぎる彼に、今回は少々きつめに灸を据えただけだ。
姑息な手を使った、とも思わなくはないが、 それでも其処までしなければ目の前の人は絶対に反省してくれも頷いてくれもしないだろうから。

「絳攸、」

恐る恐る、という形容がぴったりと当てはまるほど静かに呼んだ彼の名前は、しかし彼にとっては全く関係なかったらしい。
規則正しい呼吸を伝えていた肩はこちらが驚くほどびくりと震えた。

(ああ、やっぱり、)

予感が当たっていた事に思わず頭を壁に打ち付けたくなった。
思慮が足りなかった、などと本当にいまさらで。絳攸のため、といいながら結局私は自信の事しか頭になかったのだ。
手前勝手な理由で彼をせめて傷つけて、・・・・・・嫌われたくないと、思っている。

(最悪だな、)

自虐趣味はないけれど、他でもない絳攸を傷つけた。真っ白で穢れる事を知らない彼を。
『他人』という、自分に媚びへつらう事しか知らない連中を厭うて冷たくあしらっていた私を、 一片の曇りもない目で見るような人を。
それだけでなんだか大罪にあたるような気がする。




「絳攸、」

もう一度、今度はしっかりと見据えて。
また小さく揺れた肩に、顰めそうになる眉をどうにか堪えて。

「すまない、その、・・言い過ぎた。私の勝手ばかり押しつけてしまって、」

ごめんね、という呟きは果たして彼に届いただろうか。
知らず知らずに小さくなってゆく声が、私の彼への依存の大きさを示しているようで。
だから、覗き込もうとした途端にばっと上げられた頭に思わず固まってしまった。

「違うっ、・・・・お前は悪くない。」

必死で、しどろもどろながらフォローをしてくれる絳攸の顔は、前ほどではないけれどかなり疲労が溜まっていた。
慌てて寝台に座っていた絳攸を横にする。
それをどうとったのか、支えていた背中から放そうとした私の手を掴んで、絳攸は苦しげに眉を寄せた。

「こうゆ、う?」

あり得ない行動とあり得ない表情をつくっている彼に絶句した。
体と心は比例する、というが、まさかここまでとは。
熱が出ているわけではないのだが、・・・・と思いながらも、 やはり体調が万全でない時は、誰しも人恋しくなるののだ、と無理矢理完結させる。
でなければ説明が付かない。
他の理由は、――――― 今は考えたくなかった。

(止まらなくなりそうだ、)

「どうしたんだい、」

心の混乱をおくびにも出さず、なるべく穏やかに聞こえるように囁けば、 絳攸は恥ずかしそうにけれどしっかりとこちらの目を見て。

「そ、の!・・・・・本当にお前が悪いんじゃなくて、俺の不注意で。だ、から・・」

「ん?」

「もし、お前が怒ってなくて、あ、呆れても、いないんだったら、・・・」

「?」

長い付き合いだ、彼の言いたい事は表情だけでわかると自負していたのだが、 それは思い違いだったらしい。彼が何をそんなに必死なのか、さっぱりわからない。

「絳攸?」

「しっ、しばらく此処で、ゆっくりして行け!」

最後はやけ気味に吐き出された言葉に、今度こそぽかーんと。 絳攸に常春の冠を拝命している身としてはいっそあり得ないほど、真抜けた顔をしてしまった。

「否、別に仕事があるとか用事があるとか、だったら全く構わないけどな。 その、・・・・女、と約束とか。別にお前がいないからって仕事をしに戻ったりはしないから! ただ、・・ちょっと一人じゃ、暇だし。」

などなどぶつぶつと誰に聞かせるでもなく、(強いて言うなら彼自身だろうか) 喋り続けている絳攸の横顔に、ようやく飛ばしていた思考が戻ってきた。
何故、あんなにも真っ赤だったのかも。
まずい、と思う。顔の筋肉がそろいも揃って緩みだした。

「うん、」

言葉にすればなお鮮明にそれは現れだして。

(ああ、やはり。私は絳攸を中心に回っているのかな?)

などと馬鹿げた事を本気で考え込んでしまうくらいには。
もう一度「うん、」と承諾でもない拒否でもない、ただ頷き返す。
私達にはこれだけで十分なのだと、 驕りではないと思わせてくれる君はやはり最高の『親友』だと、今はまだそう思う事にする。

「うん、今日は実はとても暇なんだよ。」

じゃあ何か話そうか。
そう言えば、不器用な彼は口をむっと引き結んで、けれど目には隠しきれない喜色を浮かべて、 「最近、吏部で・・・・」と。
近頃本当にご無沙汰していた、互いの近状を伝えあい。

多くの人々にとって安静な夜は、人知れず更けていった。


date:2006/12/30   By 蔡岐

【艶毒, "鍵はまだあげない"】