今日も今日とて、李絳攸の堪忍袋の緒は限界に達していた。 朝から養い親がしない吏部の仕事に追われ、 どうにか夕方も近く執務室へ来ると、王は府庫へとトンズラをかましていた。 こういう時に限っていつもは五月蝿いほどにまとわりついてくる男は不在で、 結局迷いに迷いながらたどり着いた府庫から、今ようやくこの莫迦王を連れ帰ってきたところなのだ。 (それなのに、・・・・!) 執務放棄をしておきながらこのていたらく。 あろう事か、「しんどいっ」だ「疲れた」だとぬかしている。 (この、クソ莫迦王ぉーーーっ!!!) 心中でそう叫んだところで、劉輝もようやく側近の虫の居所の悪さに気づいたのか、 ダランと机と仲良くしていた体勢から向き直った。 「こ、絳攸・・・?」 少し不安そうに恐る恐る名前を呼んでくる。 いつもならそこで説教の1つや2つして許すところなのだが、残念ながら今回はその余裕すら残っていなかった。 予想以上に迷い歩いた事で、かなりの疲労(精神的にも肉体的にも)が溜まっていたのかも知れない。 「主上、」 「な、なんだ、絳攸。」 汗をかいて心なしか後ろに下がった劉輝を容赦なくひっ掴んで座らせ、机の上にドンッと大量の書類の束を置いた。 「こ、れ・・・・・」 「今日中に、す・べ・て、仕上げてくださいね。でないと、明後日邵可様宅へは絶対に行かせん。」 「なっ、この量をか!酷いのだ絳攸!こんなの―――」 さすがにそんな事されては溜まらないと、劉輝が反発する。 そこでついに側近の短い短い理性の尾は切れた。 「ええいっ、五月蝿い!!元はといえば貴様がちゃんと仕事していなかったからだろうがっ!!」 「うっ」 「明日の出仕までに終わらせておけ、いいなっ!?」 「・・・・・」 剣幕におされてか、それともこういう時の彼に口答えしてはいけないと思ったのか、 劉輝は黙り込む事で了承の意を示した。 それに鼻息荒く答えて、絳攸は大股で扉の方へむかった。 扉を開けて、出ようとして、ふと何か気が付いたように立ち止まる。 そのままの状態で、「主上、」としょぼくれている王を呼んだ。 「・・・楸瑛はどうしたんだ?」 劉輝は突然発された問いに驚きながらも、少し悲しそうにふるふると首を振る。 「知らないのだ、・・・・今日は朝から見ていない。」 告げられた言葉に驚きながらも、再び湧いてきた別口の怒りに、 絳攸は礼もそこそこに強い勢いで扉を閉め、武官の詰め所の方へ(実際は逆方向だったが)歩き出した。 王の執務室を出て、すでに半刻。 とうに自分が何処を歩いているかなど、まったく分からなくなっている。 それでも歩き続けるのは、そのうち目的地に着くかも知れないという淡い期待と、 何より吏部侍郎が右往左往として方向音痴(あくまでも本人は認めない)だなどと言われないためだ。 (くそくそくそっーー!楸瑛は何処だっ!?) 絳攸は先ほどからずっと楸瑛を探していた。 武官詰め所を目指していたのは、基本的に其処が一番やつの寄りつきやすい場所だと踏んだからで。 主上に聞いて、そういえば今日は自分も一度も常春にあっていないんじゃないか、 と気づいて、ついで主上の所にも顔を出さず何しているんだっ、と沸々と怒りが湧いてきた。 主上が楸瑛の動向を知らないという事は、出仕はしている、ということになる。 にしては、俺も主上も一度もあっていないというのは、かなりおかしな話だ。 (昨日は、・・普通、だったはずだ。) いつものように前に後ろにくっついてきてベラベラと喋りまくっていた。 仕事の方も、――――まぁまともにしていたと思う。 (だとすれば余計に変だ。否、あれが変なのはいつもだが・・・、) こうして毎度のごとく迷っていても、姿一つ表さない。 平素ならすでににたにたと気色悪い笑みを貼り付けながら、「絳攸、」と呼んでくるのに。 落ち着かない、あの常春一人いないだけで。 あんな男、害虫以外の何者でもないはずなのに―――――。 (あの時と、同じ、だからか、―――) だからこうも不安になるのだろうか。 あの男、藍楸瑛が朝廷から『いなくなった』、あの日に。 元々、誰に対しても素を見せない奴だ、ということは気づいていた。 同期にも上司にも話しかけられて、話しかけて。いつも笑顔で対応していて。 けれど、あいつは一度として本気で笑っていなかった。 藍楸瑛にとって、『笑顔』は道具の一つなのだ、決して他人の前で素顔を晒したりしないための。 誰にも一線を引くための、体の良い道具。 だから俺はあの男が苦手だった、俺とは全く正反対の性質だったから。 なのに、国試でも進士の時も官吏になってからも、 気安く話しかけてくるあいつの事が分からなくて、だから毎度怒鳴りつけていた。 あいつの中でどこまでが身内でどこからが他人なのか、―――――。 それくらい俺にだって分かっていたから。 少なくとも、楸瑛にとって俺は『他人』だった。 だから、―――彼が俺に何も言わず官吏を止め、朝廷を辞した時。別にどうという事も無いと思った。 俺には関係のない事。 俺は少しでも黎深様のお役に立とう思って国試を受けて、官吏になった。 黎深様のいる吏部へ配属になって仕事をこなして、近くであの方を支えていける事が喜びで、 そのために働いてきた。 間違っても、楸瑛に毎度言いくるめられ、腕をとって道案内してもらうためじゃない。 (はずなのに、) 何故かあの時俺の心から漏れたのは、寂しい―――、という言葉だった。 結局あの後、楸瑛はすぐに朝廷に復帰した。 正確に言うなら、官吏を辞してすぐ国武試験を受けた、らしい。 朝廷の中庭であった楸瑛は依然と全く変わっていなくて。相変わらず胡散臭い笑みを浮かべていて、 その言葉を聞いた時は、驚きしか湧かなくて。 次に憤り、・・・・・そして最後に、ほんの少しだけ安堵した。 あの時の二の舞は御免だ。そう思う。 だから、また迷うと分かっていてこうやって探しているのだ。 (あの常春頭、女の所とかだったら、本気で怒るぞっ。) ぶつぶつと聞き取りにくい言葉を発しながら、絳攸は暗く先の見えにくくなった外朝の廊下を歩いていった。 |