ああ、だめだ。と思った。 凍雲 絳攸は寝台の上で寝返りを繰り返した。 動きたくはない、けれどじっとしているのも苦痛で堪らず、気がつくと足を動かし体を捻っている。 (気持ち悪い、) 吐き気を伴うものではないが、体の内がなんとなく釈然としない。 どろどろと気味の悪い熱が全身から溢れ出してくる。 どうにかせき止めようとして、結果的に未だぐずぐずと安心できる此処から抜け出せないでいる。 「くそ、」 弱々しい声。 大声で怒鳴り、物寂しいこの室に響かせたい衝動に駆られるが、それはあまりに幼稚すぎる。 そんな痴態、自分の高すぎる矜持が許さない。 黎深様が出仕されていて良かった、百合様がご用事で外出されていて良かった。 心底そう思った。 肢体が怠く動きたくないのに、起き出してがむしゃらに体を動かしたい。 その狭間で煮え切らずにいるおかげで機嫌は最悪的に悪い。 捌け口を求めて物に当たっている姿など見られたくはない。 「う〜、くそっ」 悪態を吐く自分にすら嫌気がさす。 むしゃくしゃしているのに頭は少し霞んでいて我ながら少し気味が悪い。 (あー、なんだかもうどうでも良くなってきた) 静かだ、しーんとしていて誰の何の気配も感じない。 いつもなら朝廷で昼食の時間も惜しんで決裁待ちの書類を片づけている時で、 人の騒めきや周りの些細な音になんて気を配っていなかった。 曇り空に覆われた下では何もかもが灰色になって、周りの全ての存在が希薄に感じて。 なのに、やけに俺の存在だけがはっきりしている。 (・・・厠へ、) 行こう、と。 考えると同時に体が動いていた。 やや乱暴に掛け衣を剥ぎ、寝台に座る。 途端、服の隙間から入り込んできた外気の冷たさに身震いして、早くも温かい布に入り込みたくなる。 慌てて上着を着込もうとして、襲ってきたぐわんと鳴り響く頭痛にきつく眉を寄せた。 外はさらに寒かった、屋内とは比べ物にならない。 どうにか厠へ行った帰り。早く室へ戻ろうとして、そこでふと雪が降っている事に気づいた。 (なんでこんな時に、) 真冬だから当たり前なのだが、それがどうして今日なのか。 (初雪なのに) 今年は平年より気温が高く、最近ようやく本格的な冬らしさを見せ始めていた。 そのおかげで俺はこうして邸で油を売っているわけだが。 平素から体の頑丈さを取り柄としているあの二人は、今頃目を輝かせているのだろう。 特に未だ子どもらしさの抜けない王は、仕事そっちのけで積もった雪で遊ぶ算段を考えているかも知れない。 (あいつも最終的には主上に甘いからな、) 苦笑しながらも止めようとはしないだろう、むしろ鍛錬とか言いながらこの寒空の中笑っていそうな気がする。 考えただけで溜息が出そうだ。 (くそ、・・・・・) 相も変わらず辺りに人の気配はない、ついでに室へ着く様子もない。 酷く見慣れた場所なのにどこだか分からない、今の道をどっちに進めばよいのかも。 頭痛はさらに酷くなって歩くのも億劫で、けれど既にどこから来たのかも分からない。 進み続けて目的地につける事を祈るのみである。 ちらちらと降り庭に積もる雪を恨めしげに見遣る。 ― ねぇ、絳攸。雪が降ったら、・ ・ ・ ― 脳裏に常春の緩んだ顔が浮かんだ。 まだ葉が紅く成りきらぬ時分に紡がれた約束に「気が早い、俺はお前ほど暇じゃない」、 と可愛げもなく返し背を向けたのを思い出す。 寒いのはあまり得意ではないが、雪が降れば綺麗だと思うし、積もればそれはそれで常とは違う景色を見る事が出来る。 ただあの男が妓女や女官に向けるような笑顔で、そんな事を言ってきた事が癪に障った。 しんしんと舞い降りる結晶が熱い頬を掠めてゆく。 いつの間にか足は止まり、空に釘付けになっていた。 吐き出す息が白く、頬を撫でる凍てついた風がとても気持ちよかった。 寒さのため握り込んでいた手を出すと、雪がふわりと上に乗ってあっという間に消えてしまった。 ― 雪が降ったら、私の邸で雪見をしよう。良い酒を用意しておくから。 ― 嬉しい事を素直に相手に伝えられないのは、もう自分でもどうしようもない。 特にあの男には。 (なんか疲れた、) はぁ、と息を吐き出す。 元々少ない家人の数が、今日は室に近寄らないようにと言ったからか全く見かけない。 誰だってこんな日にわざわざ寒い場所にいたくはないのだろう。 ― ねぇ、絳攸。・ ・ ・ ・ ・ ― 頭痛と耳鳴りが酷くなってきた。 かといって室に帰る気はなかった、雪を眺めるつもりで近くの柱に寄る。 ― 絳攸 ― 「絳攸っ!」 耳鳴りと重なった声は酷く切迫していて。 最後に見たのは、堅牢な柱とゆらゆらと降りしきる白、風に翻る藍だった。 「さて、理由を聞かせてくれないかな?絳攸。」 「っ・・・・・・なんのだ。」 悪あがきだと分かっていても敢えて惚けてみたが、途端向けられた視線に決まりが悪くふいっと横を向いた。 「はぁ〜、」という溜息が後ろから聞こえた。 それでも頑なに目を合わせず寝台に視線を落としていると、突然両肩を捕まれた。 「っ!何をするっ。」 そのまま寝台に押し倒されてのし掛かられる。 まさか、と嫌な汗が流れる。 熱はだいぶ下がったとはいえ、まだ本調子とはほど遠い。 (相手をしろ、とかいうんじゃないだろうな、) そんな事を考えている自分も大概どうかしているが、 こいつがこんな事をしてくる時といったらそれしか思いつかない。 薄ら寒いほど何の反応も返さない楸瑛に、じりじりと追いつめられているような感じさえする。 なにか言わなくては、と気ばかり焦る。 すまなかったと、謝るべきなのか。それとも感謝すればいいのか。 「あの、な。楸えぃ・・・っ!」 必死に押しだした言葉は、けれど最後まで紡がれることなく楸瑛の唇に吸収されてしまった。 そのまま強引に舌を入られる。 風邪がうつるとか、病人を襲うな、とか。抗議する事は山ほどあるはずなのに。 「ん・・ぁ、・・・・・はぅ・・ んぁ」 逃げる舌を吸われ歯列をなぞり唾液を絡め合う、たったそれだけで反応してしまっている自分が恨めしい。 経験の差なんてあって当たり前だとは分かっていても、いつまで経っても慣れる事のない行為に、 いい加減悔しくもなる。 「ぅあ・・ふ・・・・・ ・・ん・っ、・・はぁ、」 はぁはぁ、と勢いよく空気を吸い込んだ。 いつもより遥かに長い口付けにさすがの楸瑛も少し息を乱していて。 その事実が泣きたくなるほど嬉しかった。 「楸、瑛っ」 問い掛けに答えるように優しく抱きしめられる。 早鐘を打つ音が聞こえるんじゃないかというほど密着しあっているのが恥ずかしい、 けれどようやく元に戻った風な楸瑛に安堵した。 首筋に埋められた頭のせいで顔にかかる漆黒の髪を優しく梳いて、楸瑛の仄かで品の良い香りを胸一杯に吸い込む。 「絳攸、」 切なげに呼ばれた名前に、あぁこいつも同じだったのだ、と気づいた。 俺が真冬にあくまで薄い室内着で降り積もる雪を見ていた時、こいつは一体何と思ったのだろう。 「すまない、・・・考えなしだった。」 「・・・・全くだ、」 深い溜息と共に返ってきた呆れ声に、今回は全く反論の余地がない。 普段なら考えられないほど静かな俺をどう取ったのか、幾分か優しい声が耳元に降ってくる。 「君の体が傾いて、足を踏み外しそうになった時は、心臓が止まるかと思ったよ。」 「うっ、」 本当に、と囁かれる。 「君は何度、私を殺せば気がすむのかな。」 俯いていた顔を上げてにっこりと微笑まれた。 慌てて顔を背けるが一足遅く楸瑛に両頬を包まれてしまった。 まずい、今俺は真っ赤なんじゃないだろうか、熱とは違う顔の熱さがじわじわと全身へと広がってゆく。 うろうろと視線を彷徨わせていると、ぽんぽんと頭を優しく撫でられた。 はっと視線を上げると楸瑛が本当に淡く優しく笑っていて。 「もう少し眠ると良い、風邪はしっかり最後まで直さないと。ぶり返すといけないからね。」 そう言って身を引いた。 馴染んだ温かさが無くなって、途端に体が冷たくなったように感じた。 それが顔に出ていたのか、楸瑛の苦笑が聞こえる。 「大丈夫だよ、愛しい人。ずっと此処にいるから。」 低く静かな声で俺の望む事を口にする。 「・・本当か?」 「ああ、次に君の目が覚める時まで、ずっと。」 そう言いながら俺の手を握り、「温かいだろう?」と微笑う男はやはり何処までも常春で。 けれど、俺の知っている本当の楸瑛だった。 配布期間終了しました。 |