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「絳攸」

楸瑛は困ったように名を呼んだ。
絳攸はそれに背中を向け、黙々と書簡の山を相手に格闘している。

「絳攸、此方を向いてくれないかな?」

もう一度、伺うように言葉を発する。

「すまない、絳攸。忘れていたわけではないのだけれど、」

吏部侍郎室には楸瑛の声以外、筆を動かす音しか聞こえない。

「絳攸、……」

途方に暮れたような、湿り気を帯びた声でもう一度だけ絳攸を呼んだ。

「また、……後で迎えに来るよ」

そう言い残し、楸瑛はゆっくりと執務室を後にした。
扉を閉まる音を聞き届け、絳攸は静かに目を閉じ、 そして幾らやっても一向に減らない仕事に取りかかった。









「終わった、」

嬉しいはずの事柄を呟いて、 けれど暗鬱な気持ちで絳攸は処理済みの書類の前で溜息をついた。

あれから、楸瑛は一度もここを訪れなかった。
日が半分落ちかけているから、もう6時間ほどになる。
いつも常春に邪魔をされ、途切れがちになる筆運びや集中力の本来の結果が、これだ。

(まったく。どれだけ邪魔すれば気がすむんだ、お前は)

悪態をついても、寂しいと訴える心はどうにもならない。


(あいつが、……悪いんだっ)

俺は何も悪くない、そう何度言い聞かせただろう。
そうでもしなければ、またいつものように許してしまいそうになるのを戒める事はできなかった。
楸瑛の悲しそうな声が、焼き付いてしまって黙ってくれない。

ただ、少しの意地だった。
見る度に女に囲まれているあいつへの、ほんのささやかな抵抗。
俺を聖人君子か何かと勘違いしていそうな常春に対しての意思表示で、 簡単な話、あの若く初々しい女官に対する嫉妬の形だった。
だから。
今回の件に関して、あいつが悪いわけではないのだと、本当は知っていた。
俺との約束を忘れていなくて、むしろ間に合わないかもと柄にもなく焦った事が、 全ての発端である事も。

「はぁ、」

この始末をどうしよう、と溜息を吐いた。

「ずいぶんと溜息が多い事だな、絳攸」

突然かけられた声に、ばっと入り口を振り返ると、そういえば此方も朝から見かけなかった顔が1つ。

「れ、黎深様!あっいえ、別に大したことじゃ、」

言いかけて口を噤む。
これでは何かありますと、宣伝してるようなものだ。
案の定養い親は不機嫌そうな顔をした。

「藍家の小僧、か」

「…………」

違う、と言いそうになってなんとか無言を貫いた。
ここで感情的になろうものなら、それこそ火の粉が飛び散りかねないような気がした。
慎重に言葉を選んでいかなければならない。

「黎深様、楸、……藍将軍は関係な――――」

「最近は後宮にも出入りしていないと思ったが、……ふん!やはり害虫の弟は同じ害虫だったな」

重ねられた言葉に二の句が紡げなかった。
違う、と言いたかった。
けれど、黎深様の言は紛れもない真実をも含んでいたから。

「っ ……!」

昼前の、後宮での光景が浮かび、強く拳を握りしめる。

「なんて顔をしている」

言われて、初めて涙が滲んでいる事に気づいた。
慌てて手の甲でそれを拭う。

「これは、そのちょっと目にゴミが」

「別れればすむ事だろう、あんな小僧など」

ハッと顔を上げると、眉間に皺を寄せて不機嫌も露わにしていて。
俺の顔を捕らえるとそれはさらに深くなった。

「黎深様、」

「もういい、勝手にしろ」

「っ黎深様!」

聞きたくないと言うように言葉を被せ、出ていこうとするのを慌てて引き留めた。
この方が藍家を嫌いなのはよく知っている。
楸瑛のせい、というよりその上の3人の兄達との折り合いが悪いのだ。

どうして、と言われれば答えられない。
けれど、自分は良くても他の誰かにあいつの事を否定されたくはなかった。
黎深様にも、ただあいつの陰の部分だけを見て欲しくない。
我ながら、矛盾していると思う。

「絳攸、」

「はい、」

トーンが数段階下がった。
びくりと震えそうになる肩を落ち着けて、目だけはしっかりと黎深様を見つめた。

「あれの事を言われたくないなら、そんな顔はするな」

「……えっ?」

「自分の事ぐらい、自分で片を付けろ」

「黎深、さま」

パチンと扇子を鳴らすと、呼びかけには答えずに、 今度こそ大きな足取りで室を後にしていった。





誰もいなくなった侍郎室で、詰めていた息をゆるゆると吐きだす。

「黎深様」

(ありがとう、ございます)

不器用な養い親の気配りに心が温かくなる、自然に頬が緩んでいた。

(俺は幸せ者だな)

邵可様と秀麗以外には決して素直でないあの方に、ほんの少しであれ心配してもらって、 楸瑛とも王の側近として毎日会う事が出来て。

(もうそろそろだな、)

もうじき楸瑛がそろりと覗きに来るだろう。
何となく、根拠はまるでないが。
その時までに、冷静に意地を張ったりせずにあいつと話す事を考えておかなければ。

「黎深様、……私は貴方から離れてなどいきません」

むしろ決して離れられない。
振り解かれないよう、必死でしがみついているのは自分の方だ。


貴方の居ない世界など要らない。

貴方に救われたこの命で、別の誰かを愛すけど。




【By 宿花(閉鎖されました) ,
"貴方の居ない世界など要らない。貴方に救われたこの命で、別の誰かを愛すけど。"】

date:2008/08/11   By 蔡岐