温度
date:2006/08/12 ―――――望月 頬を撫でる風が生暖かく、少し湿っぽい。 窓を開け書を読んでいた楸瑛はその気配に顔を上げた。 雨、か・・・・・ 果たして、それは当たった。 まもなくピカッと光が走ったかと思うと耳を劈くような轟音。 それに続くようにして大粒の水滴が我先にと降ってくる。 青白い月光りは厚い雲に遮られ、ただ無数の水滴が地面を打つ音だけが辺りを支配していく。 しばらく紫黒く染まった空を見つめていた楸瑛は、窓から入る雨粒が床を濡らすに至り、椅子から腰を上げた。 閉めようと取っ手に手をかけると、ふと庭院に浮かび上がった人影。 「龍蓮!?―――」 何故貴陽に、というよりどうして雨の中突っ立って・・・・・・ 思わぬ所で不意打ちを食らわされた楸瑛は眉間に手を当てた。 そんな兄の心境など露知らず、龍蓮は微動だにせず広い庭院に降りたまま雨に打たれている。 雨宿りなどする気は、なさそうだ。 「・・・・・・はぁ、仕方ないな。」 楸瑛は上着を軽く羽織ると、手に布を持って自室を後にした。 「龍蓮!」 雨の中。春雷とは違う、けれどそれ以上の強さを持った声が龍蓮の鼓膜に響いた。 「愚兄其の四、」 小さく、独り言のような呟き。 「 」 振り返ると兄がやれやれといった風に此方へ歩いてきていて。 見上げる形で、すぐ上の兄を見ると突然手を掴まれ回廊に連れて行かれる。 別段、反抗する理由も動機もないため為すがままにされていると、はぁと言う溜息の後、強い勢いで頭を拭かれた。 「まったく、風邪の時くらい大人しくしていなさい。」 「風邪?・・・・・・愚兄がか?」 「君が、だよ。馬鹿龍蓮。」 カゼ・・・・・・ 「あぁ。故に少し頭がぼやぁーっとしていたのだな。」 するとまた重い溜息。 「愚兄、溜息ばかり吐いていると幸薄い人生となるぞ。」 「・・・・・・君や兄達がいる時点で、既に幸薄いから今更幸せも逃げようがないよ。」 「むっ、心配しているというのに何という言い草。血も涙も無いとはまさに―――」 「はいはい、いいからしっかり此方を向きなさい。」 「人の言葉を遮るとは無礼な。 俗に浸りきって、精神未発達未成熟だけでは飽き足らず、礼儀常識まで後退したか。 嘆かわしいぞ、愚兄。」 「・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・」 楸瑛はもはや聞く耳持たぬと言うように、手早く龍蓮の濡れそぼった髪を拭く。 だから楸瑛は気づかなかった。 龍蓮が憮然としたような少し困ったような表情をしていたことを。 瞳だけは褒められた幼子の如く輝かせていたことを。 そして、それを兄には見せまいと僅かに俯いたことを。 「よしっ!終わったよ、龍蓮。」 だから早く着替えて寝なさい。 言外に滲まされた言葉に、何か言おうとか考えたが、龍蓮はその思考をすぐに停止した。 自分は旅の人であり、この兄にはまだ及ばないが武術もそれなりに心得ている。 が、平素よりも高い体温の中、雨に何刻も降られていた身体は既に龍蓮の命令下から離れつつある。 さすがにもう平然と立っているのは辛い状態だ。 それに、・・・・・・・・・ 「楸兄上、」 「・・・なんだい?」 滅多に呼ばれない本来の呼称に驚きを露わにしつつ尋ねてきた兄に小さな笑みを漏らすと、 龍蓮は静かに目の前の、自分とよく似た顔を持つ男へ凭れ掛かった。 逞しい兄の身体は、けれど優しく、とても温かかった。 「――――― 眠い。」 そう言って上がるであろう戸惑いの声を封じ込める。 そしてつい、と楸瑛の方へ目線を上げた。 楸兄上は自分にとって愚兄だが、決して馬鹿でも愚かでもない。 むしろ人一倍情緒に敏感で、そこから瞬時に相手の心情を推し量る。 それは近しい者であればあるほど鋭くて。 ・・・・・・・・・藍龍蓮とて気をつけていないと心理を読まれそうなほど。 故にこれで十分。 相手が他人であるならば、たったこれだけの行動では自分の望みは酌み取れまいが、 この兄ならば何の問題もない。 仮にも自分が“愚兄”と呼ぶ兄ならば。 「・・・・・・・・・分かったよ、私の部屋で良いね?」 コクリ、と無言で頷く。 楸瑛は、仕方ないね、と言い、龍蓮を抱えて自室へ歩き出した。 龍蓮は緩やかな振動の中で柔らかな笑みを浮かべながら或る事を考える。 しかしまたしてもその思考を打ち切った。 そんなもの、考えるまでもない そうしてこれから訪れるであろう優しい時間を思い、僅かに重心を兄へと傾ける。 確率は、十割十分・・・ その呟きは雨に掻き消されて、楸瑛には届かなかったけれど。 5000Hitフリー配布は終了しました。 |