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役に立たない救命道具
date:2006/07/29

「絳攸」


自分の名を呼ぶ聞き慣れた声に李絳攸は筆を置いて顔を上げる。
果たして、自分とは腐れ縁にあり(彼に言わせれば『親友』だそうだが、認める気はさらさら無い) 主上に双花菖蒲を下賜されたもう一人の人物、藍楸瑛が立っていた。


「なんだ気色悪い、おまえがそんな顔してるとは。・・・女にでも振られたか。」


そう言ってやると、目の前の男はようやくその唇に笑みをのせた。
ただしその微笑は酷く不自然であったのだが。


「酷いね、・・・せっかく君が迷子になり、吏部での仕事が遅れて府庫に泊まる。
 なんていう事態にならないように迎えに来たというのに。」

「貴様ぁ〜〜〜っ、」

「おや、そのせいで黎深様に仕事を増やされていると思っていたんだけれど、」


違ったかい?、
あぁそれに、もう少し君の容姿を生かす場を作っても良いと思うんだけれどねぇ。
・・・・・・君の毎夜の寝所が府庫だなんてあまりに寂しすぎる。

とあくまで笑みを浮かべながら首を傾げる男に絳攸はさきほどまでの違和感も忘れて怒鳴りまくった。


「うっ、五月蝿いっ!!!俺を貴様と一緒にするなっ!!この常春頭男っ!!!」

「ひょっとして妬いているのかい?大丈夫、私が想っているのは君だけだよ、絳攸。」


手加減なく飛ばした書簡を難なくその手に収める相手に絳攸は舌打ちする。


「貴様っ!仕事の邪魔だ、さっさと出ていけっ!!!」

「う〜ん、でもそうするとまた君が主上の執務室へ来るのが遅くなってしまうよ。」

「なっ誰がそんな行き慣れた場所で迷うかっ!!!」


本当は毎日のように迷っているのだが、意地でも認めるつもりはない。
特に藍楸瑛の前では。
その時、絳攸はふと彼の瞳が揺れたような気がした。そのことを考えるまでもなく一瞬にして普通に戻ってしまったが。


「ふ〜ん、ならしばらく失礼するよ。・・・心配しなくてもまた後で迎えにくるから。」

「二度と来るなっ!!!」











「全く、あの常春っ!・・・・・・・・・・一体何をしに来たんだ。」


楸瑛が部屋を去って、絳攸はようやくその肝心な問題に思い至った。
楸瑛が来る時はいつも何かしら世話を焼かされ仕事を中断することが多いが、
思えば彼が侍郎室に来るのは自分への用事やら報告やらがほとんどで。
たまに本当に遊びで、ただ暇で来たような時でも、なんだかんだと言いながら仕事を手伝ったりお茶を入れたりしていた。
元文官、それもかなり有能で将来を期待されていた男である。
仕事はとてもきっちりしていたし、何事も器用にこなす彼は茶を入れるのも巧い、少なくとも自分よりは遥かに。

認めるのは癪だが自分はかなりあの男に頼っているのだ、いろいろな面で。

  それなのに今日は・・・


「何か、・・・あったのか。」


ぽつり、と呟く。その事に絳攸は気づかない。

  あの飄々としていて心の内を誰にも見せない男が、例え一瞬とはいえそれを崩した

「何が、あったんだ・・・・・・楸瑛。」


若くして吏部侍郎を任された朝廷一の才人は、珍しく彼の頭の中で迷いに迷っていた。





















date:2006/07/30

「はぁ――・・・」


工部からの帰り。李絳攸は言うまでもなく、迷っていた。
あれから既に三刻が過ぎようとする中、吏部侍郎たる彼は上司からの何とも理不尽は命を受け外朝を歩く羽目になったのだ。

  それもこれも、全てあいつのせいだっ!!

絳攸はこの場にはいない男の顔を思い出し毒突いた。もちろん、心の中だけで。

これというのも。
少し様子のおかしかった楸瑛の事が気になって仕事の手が止まっているところを、 あろう事か上司で養い親でもある彼に見られたのがまずかった。


『そんな呆けた様子で仕事をされても迷惑だ。これを工部へ持って行きなさい。』


自分自身は全くもって仕事をしていないにもかかわらずあの言い草。 だがあそこで言い返してもその二,三倍の量が帰ってくるだけなので止めておいた。
悲しいかな、今の自分が仕事をしても無駄にごみを増やすだけだと、絳攸自身が一番よく分かっている。

  あぁ!!もう全てあの万年常春頭男のせいだっ!!

絳攸はもう吏部へ戻ることをあきらめた、いや外朝を歩き回る目的を切り替えた。
藍楸瑛を探し出しす、という方向に。
どのみちこのモヤモヤが晴れない限りは仕事に支障をきたすだろうし(現に差し支えている)、 今日の予定を大幅に崩された上に、かの上司にまで迷惑をかける原因を作った男。 そいつに責任を取らせなければ彼の気が済まなかった。

  遅れた分、絶対手伝わせてやる!!!

理由は、そういうことにしておく。
間違っても彼を案じてのことでは、ない。絶対にない。






「・・・絳攸様」


名を呼ばれてそちらへ視線を向けると、そこには武官姿の男。


「静蘭か、・・・どうした。」


元主上付きで、現在は米倉門番という地位にいる彼は絳攸もよく知る人物の家人である。
しかしある事情により彼の正体(本性というのかもしれない)を知っているので、 本来なら決して負けるはずのない相手にもかかわらず、絳攸はもちろん楸瑛でさえも勝てないのだ。

  なんだ?今日は邵可様邸へ訪問する日じゃないが・・・

他に何か彼に呼び止められる事などあったか、と必死で思考を巡らせる。
これまでにも時たま自分や楸瑛を呼び止めて、 表向きは非常に丁寧に、しかし決して有無を言わせず望む要求を通してきた彼である。
もちろん出される要求は、全て彼の大事な主達を思っての事なので、致し方ない、と割り切っているのだが。
それでもやはり、呼び止められれば身構えてしまう。
一応、一武官である彼が、文官で仮にも吏部侍郎を任される自分を呼び止めることなど普通はないからだ。
そこに、『一応』『普通は』と付くのがなんとも痛いところではあるが。


「安心してください、明後日に関する『お願い』じゃありませんから。」


苦笑と共に告げられた言葉に、自分の考えが完全に見抜かれていたことに気づく。
お願い、という言葉はかなり引っかかるが、彼とそんな事を言い合っても結果は見えているので無視することにした。


「・・・・・・・・そんなに、分かり易かったか。」

「はい、とても。・・・何か悩み事でも?」


あっさり見抜かれ今度こそ二の句が告げられなくなる。
黙り込んだ絳攸に静蘭はそれ以上追求はせず、別のことを口にした。











    バタンッ


扉が閉まる音に、今まで格闘していた書類から目を上げた劉輝は其処に立つ人物に安堵の笑みを浮かべた。
だが彼の人の顔を見、その笑みは雲散した。代わりに眉間に薄くしわが寄る。


「絳攸・・・・・・どうしたのだ。」

「いいえ、・・・なんでもありません。仕事の方はどうですか。」


何でもないわけがない、という言葉をどうにか飲み込んで劉輝はもうすぐ終わりそうだと答えた。






  おかしい、おかしすぎるぞ絳攸!

この有能な主上付きは普段は全くと言っていいほど王たる自分に敬語を使わない。
本当に、果たして自分は王として敬われているのだろうか、と思うこともしばしばなのだ。
その彼が。一生懸命やっているとはいえ、この時間でまだ仕事を終わらせていない自分を叱り飛ばさず、 あまつさえ敬語で会話している。

  ・・・・・・・・・あり得ない、

考えれば考えるほど不思議だ。不思議すぎて背筋が、少し寒い。




「絳攸、何かあったのか?」


ようやく積もりに積もっていた仕事が終わり、劉輝は先ほどからの疑問を口にした。
本当なら臣下に敬語を使われることは当たり前で、それに違和感を感じる方がおかしいのだろうが、 劉輝にとっては絳攸に敬語を使われる方がよほど違和感がある。

  『変』どころの話じゃない、・・・・・・余は何かしただろうか

絳攸は入ってきてからずっと敬語を使い続けている。
普段の彼を知る劉輝としては、これはもう敬意の表れと言うより怒りの表れという他考えられなかった。


「いいえ、別に何もありません。今日の仕事はこれで終わりましたし、」

「では他に何か、余は絳攸が怒、「主上、」」


突然呼ばれ劉輝は思わず背筋を伸ばす。
そして絳攸の方を見ると何故か苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


「どうした?」

「いえ、その別に、」


明らかに普段とはかけ離れておかしい態度に、さらに目線で先を促すと、絳攸は渋々といった感じで吐露し始めた。


「主上は、その、知っていたんですか。楸瑛の事。」