普遍的価値
date:2006/07/20 「何処だ、此処は・・・」 李絳攸はそっと呟いた。 彼の仕事場である吏部を出発して既に一刻。 つまりいつものことながら彼は目的の場所(今日は執務室)に着けずにいた。 俗にいう『迷子』である、本人は決して認めようとはしないが。 超難関と言われる国試を状元及第し、吏部侍郎を任され、若き管理達からは『鉄壁の理性』として羨望の的である 絳攸の最大の弱点、それがこの天性の方向音痴。 何処をどうすれば、歩いて30歩程度の場所で迷うことができるのか。 それが彼、及び彼のその類い希なる方向感覚を知る者全員の疑問である。 どうするっ!!誰か執務室へ行く者は、・・・ そこでふと脳裏に浮かんだ人物に絳攸は瞠目し慌ててそれをうち消す。 なっ、なんであいつが出てくるんだっ!! お、おっ落ち着け、落ち着くんだっ! どうにか早鐘のように鳴る心を落ち着けたはいいが、それで何が変わるわけでもない。 自分が執務室に行けず、さらには此処が朝廷のどの辺りかも分からないことは全くもって解決していない。 絳攸は静かに溜息を零した。 考えてみれば、自分はいつも彼に助けられていたことに気づく。 そして。口先では常春だとか腐れ縁と言いながら、こういう時自分が頼りにするのは、決まって彼だということも。 同じ年に国試を受け、それから事ある毎に構い倒してくる。 あの、誰よりも藍の衣の似合う男を。 「・・・・・・楸瑛、」 「なんだい、絳攸」 「・・・っ!!!」 突然肩に感じた温かい感触に、絳攸は思わず声を上げそうになった。 しかしそれすら見透かしたように後ろから伸びてきた手によって、開きかけた口は意図も容易く塞がれてしまう。 その事実に呆然と立ちつくす絳攸をよそに彼の後ろに立つ男は楽しそうに笑っている。 その声が聞き慣れた男の者だと理解した瞬間、絳攸は自分の血が煮えたぎるのを感じた。 「きっ、貴様っ―――――!!!」 見事に(彼が思っていたとおりに)怒りを爆発させた絳攸に後ろの男、藍楸瑛はパッと手を離し今度は腹を抱えて笑い出した。 その押さえられることのない笑い声に怒りのあまり眩暈すら感じながら絳攸は振り返り、 鉄壁の理性を100%かなぐり捨てて目の前の男を睨む。 「っ〜〜〜貴様ぁ、何がおかしいっっ!!!」 「・・ぃやぁ、すまないね。君があまりにも可愛い反応をするものだから。・・・つい、」 「なっ!!何がつい、だ!貴様!、いつから其処にいたっ!!?」 「ん?あぁ、もちろん先ほど着いたばかりだよ? 君を捜していたら此方へ歩いてゆく姿が見えたものだから。」 「気配を消して近づくなと、いつも言っているだろうがっ!!!」 「それはすまないね、・・・それにしても絳攸。君、どうしてこんな所にいるんだい?」 此処、後宮なんだけど、と続けられ真っ赤に怒鳴り散らしていた絳攸がピタリと止まる。 すっかり固まってしまった目の前の人物に楸瑛は楽しそうに、本当に楽しそうに口元をつり上げた。 おやおや、固まってしまって。可愛いね〜、これだから君を構うのはやめられない 「どうしたんだい?ひょっとして、また迷「ちっ、違うっ!!!」」 迷子、と言う単語を発しようとしたと同時に否定されて、楸瑛は笑みを深くした。 勢い切って『否』と言うことが既に『迷子』という事実を肯定してしまっている、と。 どうして彼は気づかないのだろう。 まぁそれだけ心を許してくれている、と言うことかな 彼が鉄壁の理性という仮面を捨てて話す人間はこの朝廷内でも本の一握り。 そして、その中に含まれていることに安堵を覚える自分も大概どうかしていると思う。 そう苦笑した楸瑛は、ふと未だ自分を上目遣いに睨んでいる絳攸と視線が絡み、にこり、と形容できる笑みを向ける。 このまま怒っている絳攸を見ているのもいいけれど、 とはいえこれ以上機嫌を損ねると後々少し厄介かな〜、 さすがに主上もそろそろ限界だろうし・・・ 「まぁまぁ絳攸、何故君が此処にいたのかはまた後で聞くとするよ。 とりあえず今は主上の身の安全の確保が最優先事項だからね。」 そう言って彼の手を取り歩き出す。 振り解かれると思った手は、以外にもすんなりついてきた。 「おい、楸瑛。あれの身の安全とはどういうことだ。」 あぁだからか、と思わないでもなかったが今は彼の心配事を取り除く方が先だ。 「君ね、主上に向かって『あれ』はないだろう。 否、君を吏部へ送り届けて既に三刻以上経っているのに来ないものだから、」 主上が今にも書類で埋まりそうなんだよ、と微笑みながら言った。 すると予想したとおり後ろからは「何―――っ!!!」と盛大な奇声が聞こえてくる。 「あんのぉ馬鹿王ぉ――っ!!」 言うが早いか絳攸は楸瑛の手を振り解きズンズン先へ歩いていく。 これでよく、・・・ 吏部の者達が『鉄壁の理性』を信じ続けているものだ、と思わないでもないけれど。 そこはやはり親友への信頼度、ということにしておこう。 とりあえず、目下楸瑛が絳攸のためにしてあげられることと言えば・・・。 「・・・絳攸、」 「っ〜〜〜五月蝿い!!分かっているっ!!!」 楸瑛の指摘で絳攸が進みかけていた道を反対方向へ歩き出す。 それを見ながら楸瑛は、「あぁ、今日も平和だね〜」と零し、 西に傾き始めた太陽に目を細めるのだった。 |