暮れてしまう



今日も今日とて、若き吏部侍郎は迷っていた。
しかも今回は何時にも増して方向音痴が冴えわたっている様である。

   くそっ、府庫はどっちだっ!!

珍しく、まだ陽のあるうちに仕事を終える事が出来たので、府庫を、もとい邵可を訪ねることにしたのだが・・・。
その途中で例の如く迷ってしまったのだ。
天性の方向音痴である絳攸が、唯一ほぼ迷わずに辿り着ける場所が府庫だったのだが、 この状況ではその名も返上しなければならなくなりそうだ。


   何故だ、どうして着かない・・・・・・

仕事をしない上司によって削りに削られた体力精神力を、邵可様に癒してもらおうと思ったのがいけなかったのか。

   まさか、これは黎深様の呪いかっ!?

などとあり得ない、けれど完全に否定できない考えが脳裏をよぎる。
敬愛する兄にいつもつれなくされている腹いせか、 たまに、否、かなり頻繁に自分に無理難題を押しつけてくるのだ、かの養い親は。

“そんな兄家族至上主義な彼に内緒で邵可様とお茶を使用としたから・・・・。”

常識から言えば本当にあり得ない話だが、 残念なことにそんな常識はあの唯我独尊な上司には全くもって通用しない。

   否、諦めるのはまだ早い、まだ時間はある

そうだ、今日はまだ太陽が照っている刻。府庫に行く者もいるだろう。
そう自分に言い聞かせて、本日何度目かの角を左に曲がろうとした時。

ふと目に入ったのは、回廊の端で話している二人、見たところ礼部の者達だろう。

「―――――藍将軍が、・・・してるんだって?それで、来週―――でも」

   藍、・・・・・・楸瑛?

「あぁ、なん――――――なくなって、今度こ・・・・・て噂があ―。」

   あいつの噂か、どうせまた女の話なんだろう

二〇代という異例の若さで左羽林将軍を拝命する男。藍楸瑛はとにかく女関係が派手なのだ。
故に彼に関する噂の大半はそれ関係で、しかもその事は初めてあった時から全く変わらない。
噂話をしていた二人は絳攸の姿に気づき、拝礼をする。
そこを何食わぬ顔で通り過ぎながら、心中で国試以来の腐れ縁である男に毒突いた。

   女遊びも、いい加減にしろっ!

   妓楼へなど行く暇があるのなら、真面目に仕事をしたらどうなんだ!常春っ!!

胸の底がチクと痛むのなんて気のせいだ、断じてあり得ない!!
会ったら絶対文句を言ってやる!と思いながら歩き続ける。

「そういえば。将軍の相手、名前はなんて言うんだ?」

そんな言葉が後ろから聞こえてきたが、いつもの事だ、と断じ府庫へと道を急いだ。











「おや、絳攸殿。お久しぶりです。」

吏部を出てから数刻後、ようやく着いた府庫では邵可が温かく迎えてくれた。
それだけで府庫までの苦労が報われる。

「さぁ、此方へどうぞ。今日は桃饅頭があるんですよ。」

突っ立っていた絳攸に邵可が席を勧める。
絳攸は有り難くその申し出を受ける事にした。

「有り難う御座います、いただきます。」

そう言って口に含んだ饅頭の何と甘く美味な事ことか。

   あぁやっぱり邵可様は朝廷の癒しだ

この、目の前にある父茶もその癒しの副産物だと思えば何倍でも飲める、だろう。



父茶と桃饅頭で幾らかたわい無い話をした後、不意に今まで気になっていた事が口を突いて出ていた。

「藍将軍の噂、ですか?」

「すっ、すみません!少し気になっただけですので!」

それにどうせあの男の事ですから、またどこぞの女に手を出したとか、そう言うことです!
慌てて邵可の思考を止めにはいるが既に時遅し。絳攸の言葉を遮り、そう言えば、と口にする。

「最近、後宮での藍将軍による被害が無くなった、とは・・・・・・耳にしますね。」

姿を見せなくなったそうですよ、と。

「・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・。」

「絳攸殿、どうしました?」

声をかけられて、はっと我に返る。今、何かもの凄いことを聞いた気がする。

「あの、・・・・・・・・・楸瑛が、ですか?」

「えぇ、私はそう聞いていますが。」

「・・・・・・・・・そう、ですか。」

   信じられない、あの無類の女好きが?

だが邵可様が聞いたというのならそうなのだろう。真実がどこにあるのかは別としても。

   どういう事だ?

後宮に入り浸らなくなったことは良い。全く問題ない。
というよりいくら王以外、今は住むべき主がいないとしても、本来なら気楽に入るべき場所では決してない。 王の近衛だからこそ許されている行為なのだ。

   まぁあの常春ならどんな立場だろうと関係ないだろうが

だがそうなるとますます解せない。
現時点であの男の行いを自粛させ得る人間など限られている。
その中で一番可能性が高いのは、静蘭だろうが彼が何か言ったのだろうか?

   それで修まるとは、思えないが・・・



「絳攸殿?どうかしましたか、顔色が優れませんが。」

「へっ?あ、いえ。大丈夫です。」

声をかけられ、何とも間抜けな声を上げてしまう。
どうやら自分は思っていた以上に考えに没頭していたようだ。

「あっ、邵可様!随分お邪魔してしまったようで、・ ・ ・すみません。
邵可様はお早くお帰り下さい。私はもう少し府庫に残って用事を済ませてから帰りますので。」

自分の下手な言い訳に嫌気が差したが、邵可様はその意をしっかりと酌み取ってくれたようで、

「そうですか?ではお言葉に甘えて今日はこれで。
絳攸殿もお疲れなのですから、ほどほどにしておいて下さいね。 弟には明日しっかりと言い聞かせておきますから。」

そう言うと、食器を片付けて府庫から出ていった。

   邵可様、・・・・・・すみません

絳攸は心中で邵可に詫びた。
あの方に気を遣わせてしまった自分が情けない。
だが今はどうしても誰かと話して暗鬱とした気分を紛らわせることは出来なかった。

   ―― 将軍の相手、名前はなんて言うんだ? ――

何気ない口調のその言葉が、頭の中から離れない。





















府庫に来る前傾きかけていた陽は既に沈み、月だけが鮮少と大地を照らす時間。
そろそろ今日も終わりだ。

絳攸は悶々と考え続けていた。

静蘭に言われ、後宮に入り浸らなくなったのなら代わりに妓楼へ通っているのだろうか?
しかしそう言う話は聞かない。
そもそもこの時期は文官も武官もかなり忙しく、王の側近である自分たちでさえ殆ど会う時間がなかったほどだ。
それなのに、果たして妓楼へなど行く暇があるだろうか?

   否、あいつならやりかねないか・・・・

本気ではない。
自分はこれでも、腐れ縁とはいえ、国試の時から藍楸瑛という男を見てきた。
例え、普段いくら巫山戯て女と遊んでいても、自分のすべき事を蔑ろにする男ではない。 むしろ進んで苦を受け入れ自分を高めようとする。
藍楸瑛という男は決して妥協を許さない。 相手はもちろん、そして相手に求める以上のものを常に己に求め続ける人間だ。

分かってはいる。それでも今はあの男を罵倒しなければやっていられない。

   あぁ!!何が言いたいんだ、俺はっ!!

考えるに順って自分の気分が降下していくのが分かる。
それでも考えて続けている自分は、・ ・ ・ 屹度馬鹿だ。
止めればいいものを何をそこまで必死になっているのか。

否、分かっている。何故自分が噂ごときをこれほどまでに気にして、 あの男の、特に色事を考えると胸が痛くて息が重くなるのか。
分かっているが、認めたくない。認めてしまってはいけない。
自分は今の彼との関係にとても満足している、それをわざわざ自らの手で壊すような事 ・ ・ ・。

   ―― 将軍の相手、名前はなん ・ ・ ・ ――

思い出してしまう科白を頭を振って追い出す。



   ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ はぁ、やめよう

そうだ、もう止めよう。
ここで自分がいくら悶々と考えたところで結局どうこうなる問題ではない。
この思いに行き場がないことくらい、その手の事に疎い自分でも嫌と言うほど分かる。

   ―― 将軍の相手、 ――

閉め出そうとしているのに、頭に響く声は止まらない。止まってくれない。

   馬鹿みたいだ・・・

本当に、なんて女々しい。
できることなら一生知りたくなど無かった。自分の中にこんな暗く醜い感情があるなどと。

「――――― 馬鹿、みたいだ。」

声に出して呟いた言葉は、外気に触れたとたん鼓膜に響き、その余りの湿っぽさに目頭が熱くなる。
泣いてはいけない、此処で泣いては本当に抑えが効かなくなる。
形振り構わず、自分の立場や矜持もかなぐり捨てて楸瑛に詰め寄ってしまう。
その後に最も見たくない光景に出会うことになるのだ。

   嫌だ!それだけはっ!!

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ そう、思うのに。


「絳攸?」

その憎らしくも懐かしい声を聞いただけで、自分の砦はいとも容易く崩壊してしまった。




date:2006/08/14  By 蔡岐

宿花 , "暮れてしまう" …「何でもありな100のお題」より 】