*





  暁と東雲と曙と


「おいっ待て、楸瑛!」

背後から闇夜を全く憚らぬ上司の声が聞こえた。

「構わん、行け」

振り返ると同時に告げられたもう一人の上司、黒大将軍の言葉に思わず頬が緩む。
それをキッと引き締めて深々と礼をする。

「てめぇ燿世、」

「楸瑛、帰ったら相手をしろ」

あまりに彼らしい承諾の言葉に苦笑が漏れそうなのを抑えて、 白大将軍の怒声を背中に浴びながら、今度はもう振り返らずに全速力で馬を駆った。






「遠征、ですか」

「うむ、」とさらっと肯定されると、逆に対応に困ってしまう。
毎回突拍子もない言動で自分達を驚かせる彼は、今回もまた予想外の言葉を放り投げてくれた。
いつも通りののほほんとした態度で出されたそれは、あまりにもその場にそぐわない単語で。
ついさっきまで机で書類と格闘していた絳攸を、一瞬にして現実に引き戻すくらいの威力があったらしい。

「何か異変でも?」

「否、そうではなくてだな。う〜む、早い話が出張訓練というか」

「なんだそれは」

眉を寄せ近づいてくる鬼の側近に、彼は少し困ったように微笑った。

「左右の、両大将軍から要請があってな。その、」

言いにくそうに私から目を逸らしたのを見て、あぁと悲しいが納得してしまった。
事ある毎に、訳の分からないことで喧嘩をし競い合うことを趣味にしている節のある上司達の顔が浮かぶ。
どうせまた、単純な諍いから話が曲がりに曲がってしまったのだろう。
しかし、…………

「どうしてまた、出張するんです?力比べなら城内で十分でしょうに」

当然の疑問を、投げかける相手は違うが言ってみると、ますます気まずそうに天井を見上げてしまう。 「その、だな」とか「えっ〜と」など意味をなさない言葉だけが出てくる。

「主上っ」

「はいっ!!」

まさに鶴の一声。
本人達にしてみたら、全く嬉しくない拍手を心中で送った。
痺れを切らした絳攸の一喝で姿勢を正して此方を見上げてきた主上に、視線だけで問い掛ける。

「うっ」

私達両方にじっと見られて居心地なさげにしていたが、 覚悟を決めたのかぐいっと顔を上げて目線をあわせた。

「実はだな、」






「まったく、こういう事はこれっきりにしてもらいたいな」

呟いて、案外によく聞こえた自分の声に彼方にあった意識が戻り、驚いてしまった。
気が付けば、空は徐々に東雲に近づいていっている。
夢中で駆っていた馬はもうへとへとで、何処かで休憩しないと王都まで保たないだろう。

「仕方ない、か」

荒れて岩が剥き出しの地面を馬の消耗ぐあいも考えず、急がせたのは私の落ち度だ。
道とすら呼べないかも知れない路を右に逸れてゆっくりと手綱を引いていくと、 少し開けた場所に砂利で覆われ細々と流れる川が見えた。
丸い石に四方を固められ居心地悪そうに流れる小川は、 それでも下流に下ればかなりの大河川になるのだろう。
そう言えば今年はそれほど雨量は多くなかった気がする。
雨期にしっかりとした雨が降らないことは民にとっては大問題だけれど、 少なくとも今の私にとっては吉と出た。


「すまないな」

誰に聞かせるでなく、強いて言えば馬に対して発した謝罪のような言葉は、 私達以外誰もいない黎明では、やけに冷たく聞こえる。
それを紛らわすために目の前のたてがみを軽く撫でた。
僅かに首を振って再び水飲みに没頭する愛馬に苦笑し、その場に腰を下ろした。


「ふぅ」

地に足が着いて、背中を預けることのできる岩の存在に、これほどまでに安堵したのは初めてだ。
腕を組んで晩秋の冷気が懐に入るのを防ぐ。
人心地付けば、どっと今日までの疲れが押し寄せてきた。
思わず解きそうになった周囲への警戒に、慌てて己を律して歯止めをかける。
本当に、と口の中で零すと、今の状況が酷く滑稽に思えて苦笑が止まらない。

「無様だな……これじゃあ大将軍達の方が速いかも知れない」

本当に、疲れているのかもしれない。
頭で思っていることがさほどの危惧もなく口から出てしまう。

「荒野で独り言とは、」

まずい、とは思う。
身体は動いてくれないけれど。
脚も腕も頭も、酷く重い。
徐々に寒気が肉体の熱を奪っていっているからか、指先が悴んでいっている。
少し動かすのも億劫で、岩に全身が縫いつけられているようで、 握っているはずの綱の感触さえ虚ろになってゆく。
目蓋さえ、閉じろ閉じろと、鉛の身体には甘美すぎる言を囁いていて。

(駄目だな、ここで……眠、ったら)

いくら王位戦争が終わって平安が訪れたと言っても、 貴陽から遥か離れた、こんな辺境の場所ではまだまだ安全とは言い難い。
それに、そもそも自分達はこの辺りで最近頻発していた山賊被害を抑えるために 来たのではなかったか。
大部分は一掃したが、完全に駆逐したとはいえない。
頭では分かっていても、連日鬼上司達にしごかれ抜かれた肉体は、その意志すら拒絶しようとする。
至福の誘いに負けそうになる――――――と。


   キィキキイイ――ッ

頭上から僅かに届いた何かの鳴き声に、微睡んでいた意識がほんの少し浮上した。
厭がる体をどうにか動かして仰ぎ見ると、鋭く尖った岩の影に2匹の猿が鎮座している。
見たところ母子だろうか、対岸に向かってキーキーと少し耳障りな音を発している。
何とはなしにその様子を見ていると、ふと脳裏を昔、誰かから聞かされた詩が通り過ぎていった。

「――――両岸猿声啼不盡 …………」

果たして誰だっただろう。
兄達か、或いは、時々まともな風流感を発揮する真性変人の弟だろうか。
どのみち、分からないほど昔には違いない。
ただそのおかげで、目が冴えてきた事には感謝だ。

(二十日ぶり、くらいか)

小さく名を呼べば、本当に何処までも愛しい姿が頭に浮かぶ。

そして、何より鮮やかに記憶している怒りで紅潮させた顔に小さく笑って、 石のような脚でゆっくりと地面を踏みしめた。

「もう少しだ、我慢しておくれ」

そう言って、馬の首筋を軽く叩いた。
私と同じく心身共に疲弊している彼は、それでもしっかりと嘶いて力強く蹄鉄で地を押しつけた。
その様子に口元が綻ぶ。
そのまま鞍に跨って腹部を蹴った。



陽が目の端に映って少し眩しい。
先ほどの小川も、朝焼けが水面を照らしている頃か。

「私も舟で来ていたら、君の元に一日で帰れたかな」

ねぇ、絳攸? そう問い掛ける。
あの川では一人乗りの小舟でも浮かべることはできないだろうけれど。
一度浮かんでしまった唄は容易に消えるものではなくて。

「軽舟已過万重山……私は全く逆なのだけれど」

むしろ、どれほど速く駆けていても一向に変わらない風景に苛立っているというのに。
それでも無理を押して走らせるのは、思い出してしまったからだ。
臣下に対して平謝りする主上の姿や、すました笑顔で出張訓練を断固拒否した某家の家人。
そして、強行な出張の理由を聞いた時の、彼の僅かに顰められた顔が次々と通り過ぎてゆく。

この分だと、遅くとも正午には貴陽に到着できるだろう。
すぐに彼に会いに行こう、子犬のように潤んだ瞳で私を見てくる主上に微笑んで。
書類整理を手伝いながら、迷子案内をしながら、ずっと絳攸の隣にいよう。
紅尚書にはさらに睨まれるかも知れないけれど、会えなかった分、 というよりそれ以上にくっついて離さない。

「彩雲の間を縫って奔馳して、待ち人に心が急くのは今も昔の変わらない、か」

取り敢えずは、今日愛しい人を安眠させることは出来そうにないな、と意地悪く笑った。





元ネタとうか、楸瑛が言った詩→「早発白帝城」

date:2008/08/11   by 蔡岐