*





十六夜の月が空を駆ける

待ち人は まだ来ない




憶えているのは君の後ろ姿だけ 思い出すのは遠い背中だけ


満月だった昨日は、雨が降って月は見えなかった。
真冬の雨の屋上はさすがにまずいからって、譲君に家へ連れ帰られてしまった。

「十六夜が……」

夜が更けてゆく。
待ち人は、まだ現れない。
月が嘲笑うように、煌々と晩冬の空に弧を描いてゆく。

(将臣君)

約束したわけじゃない。
一方的に言い置いてきただけの言葉が、とてつもなく重い。
どうしてあの時無理やりにでも一緒に連れ帰らなかったんだろう、 どうして南へ下る彼に付いていかなかったんだろう。
後悔は後から後から湧いてきて、溢れてしまいそうになる。

(できなかったの……)

知っている、知ってたから。
彼がどれほどの思いで平家を救おうとしていたか、救いたいと思っているのか。
私が源氏の神子だったように、彼は還内府だった。
何度も逆鱗を使って、運命を上書きして、全て知っていたから。
だから、言えなかった。
確固とした約束を彼がしてくれるなんて思えなくて、でも還ってきてほしくて、 最後に告げた言葉に縋りついている。

(将臣君)

16日目の月はそろそろ天頂を仰がないと見ることができない。
雲ひとつ無い紺色の景色に、ただひとつ欠けた月だけが浮かんでいる。
明るすぎる月に気圧されて、星はほとんど見えない。

(将臣、くん――)

ざわつく心を抑えるように名前を呼ぶ。
向こうの世界でも、ぽかんと浮かぶ月を見て何度も呼んで、夢で望みつづけた。
平家とか、還内府だからなんてことで諦められなかった。

きつく手を握り込む。
冷え切った鉄の網が、ぎりぎりと手の内側にくい込む。

(いつ、帰ってきてくれるの)

あなたが一人で、何もわからない世界で、それでもお世話になった人達を救おうと頑張ってたから、 私もすべきことを決意して頑張れたんだよ。
最後まで諦めないって、言ってたでしょう。
だから、私も諦めなかった。

(この世界に、……帰ってきてくれる)

そう信じたい。
もう私には彼が何を考えているか、知ることはできないから。
夢の中で通じたはずの想いに賭けている。
他に、することもできることも、もう無くなってしまった。

(まだ、役目は終わらないのかな)

責任感が強いから、きっと南へ下った平家の人達が本当に大丈夫だと確信するまでは戻ってきてくれない。
それ以上の事は、考えない。
きっと、絶対、帰ってきてくれるって。
そう思えなくなったら、私は壊れてしまうかもしれない。
たったそれだけ、それだけだ。

(将臣君の気持ちひとつで、私は――)

私は彼の心ひとつで狂ってしまうかもしれない。
それぐらい渇望して、飢えている。
彼に。

(だから、だから……っ)

「早く、帰ってきて――ってきてよ」





あの日、雨の休み時間に気がついた。
私は渡り廊下にいて、近くには譲君が友達と共に側にいて。
――でも、将臣君がいなかった。

なんで、どうして、誰より隣にいてほしい人がいないんだろう。
あの世界でも、流されて最初に確かめたのは彼の居場所だったのに。

「どうして…」

どうして、将臣君なんだろう。
戦の中でも、会えなかった望月の後でも、考えた。
優しくしてくれる人はいて、心細くて寂しい時に側に付いていてくれる人も、彼以外にたくさんいたのに。
なのに、どうして将臣君なんだろう。

答えは、まだ出ない。
けど、将臣君じゃなきゃ駄目だってことだけは、ずっと変わらない。

(早く…早く……)

冷静になれ、と指示する理性を笑い飛ばして、心は急いてゆく。
今、慌てたってどうしようもないことはわかっている。
けど手を伸ばすことは、止められない。
ガシャン、と金網が鈍い音をたてた。

冬の澄んだ空気に、耀く青白い月に、両手を伸ばす。
届かないとわかっていて、けれど届きそうなほど近く見えるその月以外、やっぱり周囲に星はない。
ただ目の前の月を掴む。
月は笑って、指の間をすり抜けた。

「ねぇ、将臣君……っ」

早く、早く帰ってきてよ。
私は心のわからない人を待ち続けられるほど、強くない。
会えない、姿の見えない人を想い続けられるほど、純粋でもない。

(将臣君を、思い出にしたく、ない、よっ)

だから、早く。一刻も早く。

「帰って、きて」

欠け月が風に吹かれ、移ってゆく。
ずっと金網を握りしめていた手は、痕が付き氷のように冷たい。
胸の奥には、まだ彼の立ち姿が鼓動している。


date:2008/08/11  by 蔡岐

Lanterna , "憶えているのは君の後ろ姿だけ 思い出すのは遠い背中だけ"
…「戦場の恋で10題」より】