ぽたり、一滴落ちた 視界が滲んだ はらはらと こぼれる涙は 誰のもの 「平次、平次っ!」 「うっさい、何度も言わんでも聞こえるわ!」 「せやったら、返事してよっ」 大滝は苦笑した。 曲がりなりにも殺人現場で、場違い極まりない言い合いが聞こえるのは、 この大阪では(もっと言えば府警の管轄では)余り珍しくない。 もうすっかり見慣れてしまった。 一課の名物になりつつある2人は、周囲の生暖かい目など歯牙にもかけず睨み合っている。 「文句垂れるんやったら、さっさと帰り。捜査の邪魔や」 「はあ!?急にパスタ食べたなったから付き合え、言うたの平次やんか!!」 「それやったら、大人しう待っとけや」 「………………」 あからさまに不満な顔をする和葉など気にもとめず、平次は鑑識の話を聞く。 その背中を和葉はじとっと睨みつける。 「まあまあ、勘弁したってや、和葉ちゃん。平ちゃん呼んだのは儂らやし」 「う〜……」 ひとしきり唸った後、和葉は、はぁ〜と重いため息を吐いた。 高校生探偵と称される平次が事件に首を突っ込むのはいつもの事、 逆に、有名になればなるほど、巻き込まれる事件も自然と増えるらしい。 「これやったら、蘭ちゃんとこのおじちゃんと同じやん」 「ん?何か言うたか、和葉ちゃん」 「ううん、何でもないです」 大滝の質問に白を切り、和葉は平次を見た。 帽子がいつの間にか前になっている。 その事が少し残念だった、文句を言う前にもっと観察しておけば良かった。 ちらり、と容疑者として足止めをくらっている人達を見る。 とあるビルのオーナーが刺殺された今回の事件、 死亡推定時刻にビル内にいてアリバイがなかったのはこの人達だけ。 「平ちゃん!ちょっとこっち来てくれ」 大滝の声が響く。 ロビーは刑事やら鑑識やら参考人やらが動き回っていて、静かとは言えないが、その中でも声はよく通った。 声の音低いのに、と昔不思議に思って尋ねた覚えがある。 ピピピィー その時、聞き慣れた電子音が聞こえた。 和葉が通話ボタンを押すと、中学からの友達の声が鼓膜を震わす。 「もしもし由理子?」 『和葉ぁ〜聞いてえな、勝樹のやつ、今日になって映画ドタキャンしてきたんよ!』 「……は?」 『最悪やろ!?こっちは楽しみにしててんで、頑張ってチケットも手に入れて……』 こっちだってまた事件に巻き込まれて、夕食まだ食べてないわっ!! 和葉はそう言い返しそうになる。 「ちょ、待って!由理子、あんたうちが置かれてる状況もちょっとは考えてーなっ!」 『ほんまにまずかったらあんたケータイなんか、取らへんやん』 「そうやけど……、また後でかけ直すから、今は無理!」 『えー』 「えーっとちゃうって」 周りの視線が和葉に集まる。 大滝の困ったような顔が和葉の視界に映った。 顔に熱が集まるのがわかった。 急いでケータイを切ろうとして耳から話した時、平次が和葉の後ろからそれを取り上げた。 「武田っ、ちょー忙しいんや!お喋りなら、後でせえ!!」 『は、服部く』 そこで声は切れた。 平次が電源を切ったケータイを和葉に投げて寄越す。 「ほら、はよ行くで」 「行く?何処へ……」 言いかけて和葉は止まった。 平次の目が特有の光を放っているように見えた。 「謎解きに、決まってるやろが」 その声も、この空間によく通った。 和葉は平次の背中を見守っていた。 不敵に、犯罪者に心底恐ろしい笑みを浮かべて、自分のテリトリーのように堂々と立っている。 事情を知らない人が見たら、異様な光景だと思うだろう。 まるで、平次が10人以上いる警察官を従えているようにみえなくもない。 和葉は誰にも気づかれないように笑った。 不謹慎だと思う、けれど自分の想像がおかしくてたまらなかった。 やがて、平次がひとりを指し示した。 中年層で目の隈がかなり濃いおじさん、その人を差して平次が不敵に笑む。 「あんたはまだ、本当の凶器を持ってるはずや」 本当の凶器? 疑問符が浮かぶ。 じゃあ、あれは。 殺人現場にあったあのナイフが使われたわけじゃないのか。 平次の話をぼんやりとだけ聞いていたので、話に着いていけない。 ………………それが、いけなかった。 「和葉っ!!!」 「っ和葉ちゃん!!!」 平次と大滝が和葉を呼ぶ。 ふっと目線の先にあったのは、一本の線だった。 所々だけ銀色に鈍く光る、変な形のそれは、だんだん太くなって和葉の目の前まで来る。 最後までそれを見る事は出来なかった。 「平次っ!!」 「取り押さえろ!」 叫んだと同時に、遠いところで大滝さんの声が響いた。 「へいじ、平次!」 「何やねん、煩いなー。何ともないわ」 「嘘や!だって、血が……」 服で抑えている左腕からは、まだ血が途絶える気配はない。 日焼けした肌を見ていると、徐々に視界がぼやけてくる。 うわっ、あかん。 慌てて、鼻をすすって顔を上げようとしたけど遅かった。 「和葉?」 勢いよく顔を上げたせいか、こぼれ落ちた涙を平次が凝視した。 ダメだ、止めないと、と頭ではわかっているのに、感情が追いついてこない。 平次がケガしたのと、平次が無事だったのと、自分のせいな事と。 ごちゃ混ぜになって出てくる。 「泣くなや、こんなことで」 「こ、こんなこ、とと、違う、もんっ」 ああ、平次の顔が見たいのに。 危ないやろって怒鳴って、ごめんって謝って、ありがとうってお礼言わなあかんのに。 涙で輪郭がにじんで見れんくて、嗚咽でしゃべられへん。 もう、最悪。 はぁー、と頭上で平次の溜め息が聞こえた。 「泣きやめや、俺がどうしたらええか、わからんやろ」 ぶっきらぼうにめんどくさそうに言う、あたしの頭を撫でながら。 「へ、いじ。左手、ちゃんと、抑え、とかんと。あかん、って……」 「だから、大丈夫やって。何度も言わすな」 苦笑しながら、あたしの目の前に翳してくれた左腕には包帯がしっかりと巻かれていた。 真っ赤に染まった布と肌のコントラストに目を細める。 残っていた最後の涙が流れた。 平次はでかでかと困ってます、と書いてある顔を更に歪めた。 「あー!ったく!!」 頭を掻きむしったかと思うと、頬に手を伸ばされごしごしと擦られた。 「ちょ、何すんのっ!」 痛いやんか! 手加減していない強さに抗議する。 犯人護送の指示をし終えた大滝さんがこっちへきた。 「平ちゃん、和葉ちゃん!」 「大滝はん」 平次が右手を振り上げる。 大滝さんはほっと張りつめていた顔を和ませた。 見慣れた穏やかな顔に、止まった涙がまた出そうになる。 「ほんま危ないとこやったわ、和葉ちゃん」 「ごめんなさい、あたしぼーっとしてて」 慌てて立ち上がると頭を下げた。 きっと本当に心配させてしもて、迷惑をかけた。 「そうや、ぼけーっとしよって」 うう、言い返せない。 口を歪めて平次を見上げる。 「平ちゃんもやで、左手そんくらいの怪我で済んだから良かったけど……」 「大滝はんまで。大丈夫やって、わかってます!!」 大滝さんにまでお小言をくらいそうになり、平次が慌てて続きを遮る。 たぶんこの後には、平次んとこのおっちゃんとおばちゃん、 もしかしたらうちのお父ちゃんの小言も貰うかもしれへん。 その時はあたしも一緒なんやろな。 そう考えて、微妙に凹んだ。 「ほれ和葉、出るで」 「え?」 「何ぼけっとしてんねん。イタ飯食いに行く言うたやろ。はよ行くで!」 「平ちゃん?」 「平次!?あんた、さっきのおじさんの事情聴取は?」 「そんなもんより俺は飯が食いたいんじゃ、ほらはよ来い」 平次に腕を掴まれ、強引に連れて行かれる。 後ろでは、ぽかーんとした表情の大滝さんがいる。 ほな勝手やけど後頼みます、って平次、あんたそれほんまに勝手すぎるんとちゃう? あたしはちらほらと雪の降る街を、平次の体温の高い手に引かれて歩いた。 後に聞いた話では、 あのおじさんは平次に犯行を見破られ、自棄になって凶器を放り投げたらしい。 傷つけるつもりはなかった、 と涙を流しながら取り調べの刑事さんに言い募っていたと、大滝さんが言ってた。 もう1つ、 平次はおばちゃん達にケガの事がばれて(当たり前やけど)ゲンコツ入りで説教された。 あたしはひたすらおばちゃんに心配されて、申し訳なくて平次を見ると、案の定じとっと睨まれた。 そして平次は、次の日1日だけ入院することになったけど、それはまた別の話。 |