空が泣いている、神様が幸いを願っている。 しとしと、しとしと。 鼻先すれすれで地面に吸い込まれていく雨粒を感慨なく見つめて、佐助はふいに振り返る。 声をかけるでもなく、かといって通りすぎるでもなく、…ただ後ろに立っていた私に、 いっそ寒気すら覚えるほど儚い笑みを浮かべた。 下駄箱の端。 外は延々雨が降りしきる。 既に梅雨は明けたというのに、全く鬱陶しい事この上ない。 「かすがちゃん?」 自分でもあからさますぎると感じるほど、頬が、口元が、歪む。 今にも掻き消えそうな微笑みそのままに、微かな声で私を呼ばった佐助は、眉を顰めた私に、へにゃりと相好を崩した。 一気に目の前の存在に、実体感が戻る。 その事実に、ほんの僅かに安堵したなどと決して言いはしない、が。 「なんだ」 「冷たいねぇー」 「貴様に優しくしてやる義理などないっ」 「あはは」と眉をへにょりと下げて、悲しげな様を笑ってみせるこいつは、既に元通りだ。 なのに、何故だろうか。 奥底に潜んだと思ったこいつの“影”は、笑みの裏に隠れているにすぎない。 変わらず瞳に見え隠れする、鋭利な…酷く渇いた、仄暗い光。 不吉な寒さを感じる。 全く最悪だ。 今は夏だ、しかも既に8月だ。気温は30度を超えている。 冷房も届かないこんな場所で、寒気などと…冗談にしても笑えない。 「ねぇ、かすがちゃん」 「だから、何だと聞いているっ」 苛立つ。 相変わらず私の機嫌が悪い事をわからないのか、分かっていてそれが楽しいのか(9割方後者だ。余計に腹が立つ!)、 佐助は気味が悪いほどの陽気な笑みを私に向ける。 “影”は消えない。 その事が、胸をざわつかせる。 「ずっと雨振ってるでしょ」 「…そうだな」 「もう梅雨は明けたはずなのに、昨日からずっと降ってて、明日も所により豪雨だなんてさぁ」 「だから何だ」 「思い出さない?」 「何をだっ?」 こいつの言葉はいつも回りくどい。 相手に察するように要求する、相手に答えを言わせたがる。 それはえてして、……佐助自信が恐れているからだ。 言葉にすることを、声にすることを。 ――こいつが言わんとしている事を、こいつ自身が忌避しているから。 「あの日をさ、っていうかあの日々を。思い出さない?」 抽象的すぎる問いかけ。 他の人間には、……私と風魔小太郎以外には、容易に推し量ることはできない。 目を見開く。 息を呑んだ私を満足そうに眺め、佐助は再び危うい光を瞳の前面に押しだした。 微笑む顔を凝視する私の目を避けるように、外へ向き直って、佐助はぽつりと呟く。 「俺はさ、梅雨ってそんなに嫌いじゃないんだよね。湿ってて蒸し蒸ししてて肌はベタつくけど、雨って嫌いじゃないし」 どことなく嬉しそうに、水遊びをする幼児のように、佐助は両手を外へ差し出す。 「どんより曇ってたりとか、そうじゃなくても薄ーく青が霞んでたりとか。…そういう朝だとさ、 俺の事も受け容れてもらっている気がするんだよね」 あくまでそんな気がするだけだけど、所詮自己満足だけど。 自嘲ぎみに呟いて、雨音に消えそうなほど小さいな声で、それでも雨は好き…、と主張する佐助の背を私はただ見つめる。 声をかける気はない。 こいつは今、――本来であれば、物思う事など有り得ないはずの過去を眺めている。 本来であれば、覚えているはずもない遠い遠い過去の己を。 時折、揺り戻しのように何を見てもどこにいても、遙かな昔に思いを馳せることがあるのは、こいつだけではない。 そして自ら望んで思い出した事のために、不安定になるのは佐助だけではない。 誰が何を言っても無駄なのだ。 意味がない。 ……それでも。 知ってはいても、こいつが柄にもなく沈んでいるのをただ見守るのは、私の性に合わない。 「真田には、」 「言ってないよ。ってより、言える訳ないんだよね」 「どういう事だ?」 「…知らないんだよ旦那は。覚えてないの、何もかも、全然、全く。これっぽっちも」 憎いなぁーほんと、と私に背を向けたまま、佐助は思ってもいない事を毒づく。 嘘を付け。 お前本当は安堵しているのだろう。 真田は鈍感だ、馬鹿だ、猪突猛進だ、……純粋だ。 このような、今の世には不要な過去、傷、痛み、知らなくて良かったと思っているくせに。 心中で悪態をつきながら、それでも声には出さない私自身も、実はこいつと大して変わらないのかも知れない。 「ちょびっとでも覚えててくれたらねー。俺あれだけ尽くしたんだよ?今だって毎日おさんどんして、掃除して、 前までは旦那が壊しちゃった襖とか服のボタンとかも俺が繕ってたのに!」 「……は?」 「それを一切合切覚えてないってどういう事さ!!」 「……ちょっと待て、佐助」 「あの人マジで俺の事、忍じゃなくてオカンとして見てたわけぇっ?有り得ない、ありえねぇよほんと」 「貴様の方が有り得んわ!!」 何で!?とくるりと振り返る食ってかかってくる佐助の瞳に、もはやさきほどまでの渇きは一滴もない。 それが嬉しいやら、逆に「何てアホらしい」と悔しいやら…。 取り敢えず、一度殴って遣らねば気が済まない! 気づけば、雨は上がっている。 分厚い雲は未だ切れないが、明日にはからりと夏らしい天気になるだろう。 「貴様の悩みは家事なのか!?」 「違うっ、や、それもないではないけどさー…」 「どっちなんだ!!」 「俺は、旦那とああ昔のあんたはあんな事もこんな事もしてたねぇー、とか。この日は確か、こんな菓子食べてこうして遊んで、とか! そういう思い出話に花を咲かせたかったわけよ!!」 「お、お前等はどこの爺婆だっ!枯れた夫婦でもあるまいに!!!」 「休日の午後くらい、縁側で緑茶啜ったって罰は当たんねぇーでしょーがっ」 俺様が日頃どんだけ旦那と大将に尽くしていると思ってんの!? 逆切れ、その後不毛な言い合い場と化した学校の下駄箱前からは、いつの間にか蝉の声さえ消えている。 元々夏休みに入っている学校に好きこのんで来る人間はほとんどいない。 運動部の連中も、私と佐助の白熱ぶりにそろそろと気配をけして(実際には全く消せていないが)通りすぎていく。 「…なーんか、虚しくなってきたわ俺様」 「当たり前だ、馬鹿者」 「あーー、雨も上がったし帰ろっか、かすがちゃん」 「私は貴様と肩を並べて帰るつもりなどない」 そもそも私はまだ帰るつもりなどない。 私は夏休みだというに出勤なさっている謙信様のご尊顔を拝むために、登校しているのだから! そこにたまたま貴様がいただけだ! そう言うと、佐助はまたわざとらしく悲しそうな表情を作って見せた。 が、時間の無駄だと思ったのか、「じゃーねぇ」と早々に退散していった。 ふんっ、さっさと帰れ! 何をしに夏休みの学校に来たかは定かでない(何せ手ぶらだ)佐助を、それでも一応背を見送ってやるのは、 同じ部活に所属する者としての義務だろう。 そう自分自身に言い訳して、未だ微かだが“影”の残りを背負った後ろ姿を見つめる。 「お前は、…馬鹿だ」 知らず、言葉がこぼれ落ちていた。 「お前は、ほんとうの…馬鹿者だ。……佐助」 真田はきっと佐助に話して欲しいと願っている。 たとえ、それが己の全くあずかり知らない事実であろうとも、今後一切思い出す事の叶わない類のものだったとしても。 そうだとしても…。 お前と共通の思い出を築いていきたいと願っているのは、お前だけではないのだから。 雨はいつか上がる。 朝降っていようと、昼降っていようと、夜降っていようと。 降り出した時があるのなら、必ず、いつか、雨は上がるのだ。 ――そして、青が顔を出す。 だから、気づけ。 さっき話した通りの光景は、お前が望めばいずれ叶うということに。 温かくからりと晴れた空の下。 緑茶を啜り、遠い昔話を聞かせる時が来る事を…。 二人で一緒に、――縁側に座って。
date:2009/09/16 by 蔡岐
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