月が昇る夜は、面倒くさい。 常々忍びゆく俺達が、さらに慎重を期して闇夜を駆けなければいけないから……。 隣にいるひと 今宵は満月。 「しかし、そのような事を言っては佐助。月に一度しか、おぬしの心穏やかな日がないことになってしまうぞ」 そう俺に抗議したのは、さきほどから一言もしゃべらなかった旦那だ。 もうそろそろ酔いが回った頃かと思っていたが、声は存外まだしっかりしている。 てか、聞いてたのね、俺の独り言。 「うーん、そうなんだよねぇ〜」 「何を頷いておる」 「だって、反論できませんからね」 「反論せよ!我が真田忍軍の長が、朔夜の他は怠いと言っておるなどと…」 「他国に知られたらまずいねぇ〜」 「佐助!!」 口をひん曲げて怒鳴る旦那を、「はいはいわかったから」と宥める。 それでさらに顰蹙を買う。――いつもの光景だ。 平和だねぇ、俺様忍だってのにさ。 こんな月が皓々と照らす夜に、他国に偵察に行くでもなく暗殺に走るでもなく、…暢気に旦那の酒のお酌ときたもんだ。 まったく! こんなこと女中にやらせればいいのにさっ。 あんたの酌ならやりたいって娘いっぱいいるだろうにねー。 何で俺なわけ? そう考え初めて、既に一刻と経った。 ま、良いけどね。今更だし。 この人の下で命を散らせると決めた時に、些末な事にも目を瞑ろうと覚悟した。 たまに、ほんとにたまーに、思い出したように「月見酒をしようぞ佐助!」と風流な事を言い出す旦那に付き合って、 暁頃まで軒先で酌をするのも、もはや慣れたものだ。 「ほれ、佐助」 「ん?あー、すいませんねぇ」 そして、この主が忍風情に酌をすることを好んでいる事も、とっくの昔に知っている。 最初は必死で遠慮したり、逆に「威厳を持てっ矜持を持てっ〜うんぬんかんぬん」と叱ってみたりした。 が、こうと決めたら梃子でも動かない旦那は、結局俺のほうに妥協を要求したわけで……、 俺も、しかたなーくそれを受け容れちゃったわけで。 「いいのかねぇ、俺ってばこんなんで」 「ん?何がだ?」 ぼやきは当然ながら、真横に座る旦那にも聞こえていたらしい。 きょとんと目を瞬かせ、首を傾げる姿は、「こいつほんとに既に元服終えてる若武者か?」と疑ってしまうほど幼い仕草だ。 けど、それが似合うんだから始末に負えない。 「ん〜。一応、俺って旦那に雇われてるわけですよ」 「一応とは何だっ、一応とは!」 「はいはい、そこで噛みついてこないの」 「……うむ」 しぶしぶ口を閉じ、さあ続きを申せ、と見つめてくる主の期待を裏切るかと思うと、俺は口に出してしまった事を少し後悔した。 「えっーとね。俺は真田家の忍でしょ、てか忍長でしょ?」 「そうであるな」 「本来なら率先して敵地探索とか密偵とかやってなきゃいけないのに、ここで旦那のお酌なんてしてて良いのかなぁ〜って」 「…佐助は俺の酒に付き合うのは嫌か」 「違いますよ。そうじゃない」 案の定勘違いした旦那は、へにょりと悲しげに眉を下げる。 それを苦笑で見守って、静かに首を振った。 「今、才蔵や鎌之助が任務に出てるでしょう。だから、ちょっと良心が咎めただけですよ」 「ああ…。そうであったな」 「ま、向こうだって適度にのびのびやってんでしょーけどねぇ」 「あやつらならな」 そう言い、僅かに笑みながら、天上に目を移す旦那を見つめる。 甲斐の若虎と巷で囁かれるこの人は、お館様と熱苦しいことこの上ないスキンシップを喜びとするテカテカと輝く太陽のようで、 …けれど、極たまにこうやって愛おしそうに望月を静かに見上げる事がある。 望月だけじゃない。 出始めの三日月も弓張月も少し欠けた十六夜の月も、居待月も更待月も、この人は興が向けばただじっとして見上げるのを好む。 いつもはにこにこと有り余るほどの気力と元気を持った人なのに。 「…なんでだろうねぇ」 「何がだ?佐助」 「いーえ、何でも」 「答えろ。気になるではないか」 「大したことじゃないって。旦那、俺にも酌してくださいよ。…そんでそろそろ寝ませんか?」 差し出した盃に旦那はトクトクと酒を注ぐと、俺の言葉にむぅっと頬を膨らませる。 何故だ、と目で問われて、まだ此処にいたいのだ、と目で請われる。 まったく、……居たいなら俺に一言命ずれば済む事なのに、この主はそれをよしとしない。 本当に困ったもんだ。 ふぅっと溜息をはいて、久々にお説教かぁ、と腰を据えた。 「だってね、旦那。分かってる?」 「…何がだ」 「さっき言ったでしょ。才蔵と鎌之助が任務に出てる。他の連中も今日は準備でてんやわんやだ」 「うっ…」 「別にあんたが月見酒したいってんなら止めないし、俺も付き合いますがね。 それも時と場合によりけりなんだよ?止めるときゃ、俺だって止める」 むぅっと口を尖らせて、旦那は俺を睨む。 けれど先ほどとは違い、その顔はどこか癇癪を起こした子供のようであり、また悪戯を見つかり叱られた童のようだ。 旦那とて、本当は分かっている。 ただ、神経が高ぶって眠ることができず、月を見て闘争心を養いながら、逸る己が心と折り合いをつけているのだ。 仕方ない、とも思うけれど。 思うけどねぇ…。 「興奮すんの早過ぎでしょう。まだ本格的に動き出してさえいないのに」 正直言って、元服して3年も経つ男がこうも落ち着いていないというのは、ちょっと問題だ。 ま、それが旦那の長所でもあり、結果武田軍の長所を延ばす事にも繋がっているのだが…。 「わかってんの?旦那、俺達明日お館様の城へ向かって、そのまま今川に攻め入るんだよ?」 「わ、わかっておる!だからこそ、今日もその準備に追われて――」 「だーかーらーっ。それじゃ、早く寝て明日に備えた方が良いって事もわかるよね」 「ぐっ。し、しかしだな、佐助」 「今回こそ言い訳は聞かないからね」 言い切った俺に、旦那は心底恨めしげな視線を寄越す。 それを鼻であしらってやると、ようやく下を向き己との葛藤を始め、――長い長い沈黙の末「分かった」と小さく呟いた。 よし、今回は無事旦那を床につかせる事に成功したようだ。 なにせこの間の北条戦は酷かった。 どれだけ言っても聞き入れてもらえず、結局夜通し月を見上げたあげく翌朝に「首が痛い眠たい疲れた」と連呼し、 挙げ句の果てお館様に殴られて殴り返す気力もなく、そのまま眠りこけてしまった。 俺様、あれほど恥ずかしかった事なんぞ、仕事に就いて以来だったよほんと。 「旦那、わかってると思うけど、絶対寝るんだよ。目を瞑るんだよ?」 「分かっておる!俺はもう童ではないぞ!!」 「何を言うかなぁ、戦が間近だからって今から興奮して眠れない人がさー」 「ううっ…」 言い返す事ができず、旦那は暗い顔で殊更ゆっくりと立ち上がった。 名残惜しいとばかりに雲が出てきた空を見上げ、悄気た顔で満ちた月に向かってなにやら呟いている。 「旦那?」 呼びかけた俺に、旦那はふと何かを悟ったような、旦那の父君のような大人びた顔を向ける。 「…佐助。お前、さきほど月が昇る日はいやだ、などと申していたな」 「え、ああ。嫌いじゃあないんだけどね」 「知っておる」 「ほら俺って忍じゃない。お仕事する時に明るいと不便なんだよね」 「知っておる」 「……旦那?」 部屋に入ろうとせず、軒下に佇む旦那の顔を覗き込む。 不思議な色を宿した瞳を俺に向ける旦那に首を傾げれば、旦那も同じ方向に首を傾ける。 「俺は好きだぞ、満月も。朔の見えぬ月も」 「知ってますよ。あんた風流なんて柄じゃないし、お酒だってそんなに飲めないのに、月見は好きでしょう」 「うむ。どのような形であれそれぞれに違う趣がある」 「そうだね」 「お前もな、そうだと思うのだ」 「…は?」 俺が首を傾げると、旦那のさらに顔を傾ける。 「朔夜に地を駆け、瞬時に俺の視界より消えさるお前を見送るのも、忍の技を見せつけられるようで乙だがな。 望月の明かりの中、木に飛び移るお前の影を追うのも好きだ」 「…あんた、まさかいっつも俺の仕事の日その場に突っ立ってたの?」 「ああ」 「ああ、って…」 随分と簡単に頷いてくれる。 どこの国に、背を主に見送られて任務に行く忍がいるものか。 「旦那ぁ〜」 「だが…、実を言えば、俺は少しだけ朔日の月が憎らしい」 「え、何でさ」 「お前は急がぬ仕事であれば、機を待ち朔日ばかりに出かける。朔にはいつも佐助が居らぬ」 ぷぅっと頬を膨らませて、不満顔を隠さず言う旦那に、俺は呆れを通り越して、嬉しささえ込み上げる。 何それ。 俺がいないから朔が嫌いって、何なのそれ。 あー、いけね。 笑いが抑えられない。 「佐助?」 「旦那、わかってる?それ、すんごい告白なんだけど」 「は!?こ、ここここ告、白…?」 「うん。いやー、俺様感激!幸村様にそこまで慈しんでもらえるなんて」 「ち、違う!や、そ、そうではなくてだな、佐助っ!」 「違うの?」 「いやっ、そのっ、違うのだ!佐助が嫌いというわけではないぞっ、ないのだが、違って、その…」 真っ赤な顔を手で覆いながら、あたふたと言い訳する旦那を、そろそろ助けてやらなければさすがに可哀想だろう。 明日に支障きたしても困るしねー。 「さー、旦那。明日は早いから早く布団入ろうねぇ〜」 「なっ!佐助っ、まだ話はっ…」 「はいはい、明日聞くから。今はさっさと寝な」 強引に部屋へ押し込むと、パシンッと障子を閉める。 佐助ぇ〜〜〜!!と向こう側から聞こえてくるが、無視して俺も割り当てられた部屋へ帰ろうとして、 …少しだけ立ち止まって、くるりと旦那の寝所を振り返る。 そして、大人しくなった寝所の障子に、そっと顔を近づける。 「言い忘れたけど、旦那。俺やっぱり満月は嫌いなんだよね」 ぴくりと奥の気配が動く。 物音が止み、俺はほくそ笑みながら言葉を続けた。 「だって、月が綺麗であればあるほど、旦那が取られちゃうでしょ?」 口角を上げそれだけ言うと、さっさとその場を後にした。 「…っさすけぇええ〜〜〜〜〜!!!!」 背後から、今度こそ屋敷中に響き渡る大音量で呼ばれた自分の名前に。 俺は歯を見せ、声を上げて笑った。 |