紫へと姿を変える空に、上弦の月がぽっかりと浮かぶ。 木の葉に遮られ、影は地上に届かないけれど。 それでも、確かにあの光は、あの時、存在していた。 たとえこの日が過ぎ去っても 「――佐助、」 「なんですかー?」 「………」 ぽつりと呟いた言葉に目敏く(耳敏く?)、反応を返してきた忍をまじまじと見る。 うっそりと首を傾げれば、目の前、天井からぶら下がる相手も同様に、俺とは逆方向に首を傾げる動作をした。 第三者から見れば、たいそう奇妙な光景だろう。 「何、旦那。俺を呼びつけたくせにだんまりなんて、酷くない?」 「別に、呼びつけてなどおらぬ」 呼んだつもりなどなかった。 気が付くと、口から音が漏れていただけだ。 「さっき呼んだじゃない」 だから、お前を呼んだわけではない。 どうしてそんなことも分からぬのか。 天井の木板から上半身を覗かせる忍を睨みつける。 「うっわ、何その顔。俺が悪いみたいな。 やだねー、気に入らない事があったら全部俺様のせいにする気?責任転嫁?」 「うるさいっ。俺は、お前を呼んでなどおらぬ。 寝付けぬので目を開けてぼうっとしておったら、いつの間にやら言葉が漏れていただけだ」 だから、別にお前を呼んだわけではない。 耳慣れ、口慣れた単語を発したに過ぎぬ。 だのに、何故それをお前は解しないのか、まったく。 「へぇー、……つまり何となくってこと?」 「そう言っておろう」 何度同じ事を言わせるのだ。 それみろ、すっかり眠気が吹き飛んでしまった。 どうしてくれる、明日は御館様の元に参じるのだぞ、寝不足で御前に侍るなど御館様に申し訳が立たぬではないか。 「あ、また俺様のせいにしてるでしょ旦那。 もー、明日は早いんだからさっさと目を閉じてくださいよ」 そう言い、忍は枕元に音もなく立った。 腰に手をあて、俺を顔を覗き込む体勢をする。 襖と夜具の間に割り込んだ体が、襖紙から漏れる光を遮り、深く曲げた腰から上が俺の顔に暗い影を落とす。 「何をする」 「早いとこ寝てもらおうと思って」 真上の忍の表情は見えないことが残念だ。 今は忍装束など身につけておらず、素面が拝めるというのに。 「まーた余計なこと考えてるでしょ、眉間に皺寄せて。ほら、早く目を瞑る」 「…………」 「睨んでも駄目です……何?」 「子守歌」 表情の見えない忍が、明らかに顔を歪めた。 何ぞ不満でもあるのか、お前のせいで寝不足になるかもしれないというのに。 「…はぁー、分かりました!歌ってあげるさっさと目を瞑れ」 「むぅ」 「歌うっつってんだから文句ないでしょ」 下げていた衾を引き上げられ、瞼の上に手を置かれる。 寝ろ、ということか。 望むどころだ、俺とて眠いのだ。 「 」 耳に響く子守歌は、幼い頃飽きるほど聞いたというのに存外に新鮮な気分だ。 「さすけ」 今度こそはっきりと傍らの忍を呼んだのに、返事は返ってこない。 子守歌は続く。 「……さ、すけ」 ぽんぽんと、そよ風のように髪に親しんだ指が触れる。 それきり音は聞こえなくなった。
date:2008/08/13 by 蔡岐
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