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遠雷の音がする、
何者にも屈することのない男の笑い声が。


 ―――― 聞こえた、気がした





峠への地図を失くしてしまった



嫌な夜だ、と思ったのはあながち間違いではなかったかもしれない。

(なぁーんて、いまさら言ってみたところでどうにもなんないけどね)

適度な雨は自らの存在を相手の目から完全に消し去ってくれるが、
それでも強すぎてはかえって面倒なだけである。
しかも春先にもかかわらず、ここ2,3日は異様な寒さが続いている。
それでどじを踏むような真似はしないが、同じ仕事をするのならやはり楽な方がいいと思う。


「ふぅ、」

息をついたと同時に、ピカリ、と一瞬強烈な光が空を白けさせる。
続いて屋敷が倒壊するかと思うほどの轟音があたりを駆けめぐった。
どうやら今のは幾分か近くに落ちたらしい。

「やだねぇ」

せっかく意外に面倒くさかった尾行の仕事帰り。
際だって急用を要する事はなかったが、任務を命じられた側として一応武田の大将に報告して、 ようやく旦那の屋敷に戻ってきたというのに、だ。

「ほんっと、何処にいても虫の好かないのってのは、いるんだねぇ」


雷……刹那に狂おしいまでの輝き。
それを戦場で身に纏う男に、いったい何度辛酸を嘗めさせられたことか。
こんな戦でない任務明け。(俺に言わせれば日常)
そんな時にまで、まるで「ざまぁみろ」と「忘れるな」と言われているような。

それが例え俺の勝手な思いこみだったとしても、
否、事実完全な被害妄想なのだけれど、それでもやはり始終、 ふと思い出してしまうほどにはあの男の存在が自分の中で大きくなっている、というのは。

(……なんか、すっごいむかつく)

個人として嫌いになれない分、多分余計に質が悪いのだろう。あの男は。

……本当は、本当は違うと、そうではないのだと分かっている。
嫌と言うほど思い知らされている。
ただそれは絶対に認めたくないだけであって。



「―― 佐助?」

「へ?」

背後から呼ばれた名前を、頭が処理する前にすでに身体は方向を変えていた。
目の前にいたのは、見飽きるほど見慣れた主の姿。

「旦那、」

いつから、という呟きは彼の焦ったように近づいてくる足音でかき消されてしまった。

「佐助!いつ戻った!」

言ったかと思うと乱暴に腕を捕まれ、ぐるぐるとその場で回転させられた。

「ちょ、なにすんの!」

何をそんなに慌ててるんだ、ていうか何がしたいのあんた。

「どこに怪我を負ったのだ?」

「は?何言って……」

傷など負っていない、そう返せば「嘘だ!」と一蹴された。

「何を根拠に、」

「においがする!」

血の臭いだ!、と詰め寄る顔は今にも泣きそうだ。

(はは、なんであんたがそんな顔してんの、)

滑稽すぎて笑ってしまう、もう今更過ぎるほど何度言っても忍を忍と思わない主が、 佐助相手に何度もみせる聞き分けのない子どもの顔。

(見飽きた、なんてあり得ない)

この人はいつでもまっすぐで、泣くときも笑うときも真剣で。今、を生きている。
敬愛するお館様の御上洛ためにがむしゃらに頑張って戦って戦って。
必死で何もかもを一生懸命に、そうやって日々を過ごしている。
それは、宿敵に対しても変わることはなく…………

―――― 忍には、決してできない生き方だ。

「大丈夫ですよ、」

「何がだ!おまえはいつも、…………っ!」

「旦那、だーんなっ、」

手振りで落ち着けと諭すと、しぶしぶながら大人しくなる姿に再び笑いがこみ上げてくるが、 余計にややこしいことになりそうなので、ぐっと我慢する。

「俺は今回どーこも怪我してないの」

「だがっ!」

「はいはい、分かったから。旦那ってほんと意外に鼻が良いねぇ。
俺様としてはあんまり気づかれたくなかったんだけど……」

「………………」

「怒らない怒らない、褒めてるんですよ。あのね、旦那。旦那は男、俺は?」

「…………女子、だろう」

「うん、一応ね。それじゃ質問、女の子はね1ヵ月に一度くらい赤ちゃんを産むために――」

「わぁー、わかった!わかったぞっ!それ以上言わないでくれっ」

「んー、わかってくれました?」

「うむ、承知した!すまん佐助!」

「ま、いいですけどねぇ〜。っていうか、まだ起きてたんですか?」

そうやっていつもの調子で返すと、途端に怯んで居心地悪そうにする。
本当に、戦場では紅蓮の鬼と恐れられる人とは思えない。

忍に対しても市井の人々に対しても、全く変わらない態度が。
それが、あの男の前では脆く瓦解するのだと、気づいたのはいつだったか。

(本当に、やってられない)

「……佐助を、待っていたのだ」

明日あたり帰ってくるだろうと、才蔵が言っていたから。
と、そんなことをいう主を持ってしまったのは、幸福なのか不幸なのか。


(忍に幸も不幸も有りはしない、ただ仕えるだけ)

命果てるまで。
主のために己が命を使うために、忍は生きている。
決して主のためではなく、自分のために。俺が忍であるために。

雨は、いつのまにか止んでいた。
未だ微妙にごろごろと存在を主張する雷鳴も、しだいに遠ざかっていっている。

「佐助?」

どうした?、なんて俺など気にかけなくても良いのに。
そうと思うのは真田家にいる限り恐れ多いことだろうけれど。
けれど、かの竜に向ける視線とは明らかに違っていることを知っている事が、俺をどこまでも貪欲にする。

「うん?ほら早く中入って。いくら旦那でも、もしかしたら風邪ひくかもしれないでしょ」

「某でも、とはなんだ!」

憤慨しながら、それでも言われたとおりに部屋へ入るところが素直というかなんというか。
ふと、ようやく旦那と出くわした訳がわかった。

(うわぁー、これで無意識って俺様どうなの?)

居たのは主の部屋のまん前。これでは気づく気づかれないの話ではない。
気づいてほしい、と言っているも同然ではないか。

「何をしている、佐助。早くあがって来ぬか」

掛けられた言葉が、余計に所在無さを突きつけてくる。

(ああもう、なんだってんだよっ)

この人がこんなんだから、分不相応で有り得ないとわかっていても、諦める事ができないのに。
その事実に、さらに油を注ぐ醜態を自ら晒す、なんて!

「佐助、早く来ぬか。風邪を引くぞ」

どうだ、と言わんばかりに満足げに鼻を鳴らすこの主をどうしてくれようか。
はいはい、とおざなりに返せば、むぅっと頬を膨らませ手をばたつかせて不満を訴えている。

嫉妬、なんてものをこの人に理解することなど不可能だろう、 どこまでも真っ直ぐ過ぎるほど前しか見えなくて、……見ない人だから。
旦那の優先順位は、大将>団子>>>伊達政宗…………くらいだろうから。

(ほんっと、不毛だよね)

小さくため息を零し、いい加減深夜の静寂もはばからず騒ぎ出した主を黙らせるために、 のろのろと動き軒先に上がった。


どこか遠くで、天に帰る竜の最後の閃きが鳴り響いた。



date:2007/04/03   By 蔡岐

Lanterna , "峠への地図を失(な)くしてしまった"】